◆ (単行本) 反教育論 猿の思考から超猿の思考へ ― 2024/02/04 03:46
一読した所、見覚えがあった。
以前取り上げた、下記と同じ著者だった。
「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書) 新書 – 2006/10/21
なぜ生きる意味が感じられないのか: 満ち足りた空虚について 単行本 – 2022/9/27
著者いわく、本書は上記「普通がいい」の次、という位置づけとのこと。
本書の議論だが、どちらかというと、ダメな点を論(あげつら)う方に重点があり、ではどうするかの対処法は薄いという、この手の本ではよくある構成のように思えた。
論旨は、前著とほぼ同じだ。
なので、本書での独自性は、少ない相違点をピックすればよい。
教育を扱った本である。
今の教育は間違っており、正しい教育は違うはずだ、そういう観点で書かれている。
著者は、その差を、サルとオオカミを象徴的に例えて説明している。
まず、サルは、全てを自分の利益のために使おうとする狡猾な動物として設定される。思考が、自分が得をするのか、するとしたらどれだけか、に終始するような人たちだ。
それはつまり、「してもらいたい側の人」、子供そのものだ。
著者は、子供が子供を量産する職務を担っている、と書いている。
ここは、上述の他の著書と同じだ。
対して、オオカミは、一般的なイメージとは異なり、相互信頼による協力に基づいた群れ(社会)を形成する、より理想に近いものを象徴している。
それは、己が興味や欲求も並行して探求し続ける、真に社会的な側面を持つものとして書かれている。
自らの理想や目的を、他人と折り合いながら目指してゆく。
それはいわば、「自力で他人に何かをできる人」、大人の言い換えとも取れる。
サル思考に足りないものとして、嫌悪などの好みや欲求に対する自由、自己への愛などが挙がっている。まず初めに自分を肯定し尊重できなければ、他人を尊重することもあり得ない。教育現場で教えている信頼や尊重は上辺(うわべ)の振る舞いの部分だけであり、これを剥げば利己的な奪い合いや騙し合いに過ぎない、ただの欺瞞であると喝破している。
ではどうすれば、は終章にまとまっているが、それは、野生の回復、と称されている。伝統への回帰により「頭」から「心」へ思考の重心を移すことで、自己愛を回復し、判断力を醸造する、とそんな話になっている。
自己愛は、行き過ぎれば自己満足や自分勝手になる。このバランスをどう取るか。
この2点の課題の解決策だが、やはり、両方とも明示はされない。(オオカミからの)今後の我々の学びにかかっている、といった言及で終わっている。
その意味では中途半端な本なのだが、実際に教育で悩む親、今の教育に疑問を持つ全ての人に、広く示唆というか、ヒントを与えるものではあると思う。
今、我々が抱えている根本的な問題は、多分、我々の世代で解決することは覚束ず、その堕落が為されてきたプロセスと同じ程度の、数世代の時間がかかるものが多かろう。つまり、解決や改善を次世代に任せざるを得ないわけで、世間一般、同種の社会問題の議論が、教育の話に落ち着く、という帰結はよく見かける。
個人的には、そういった「後はヨロシク」的な終わり方は卑怯なようで好みではないが、そうせざるを得ないのであれば、せめて課題と論点の整理くらいはして遺したい。
そのための資料程度にはなりそうな本のような気がしたのだ。
以下は余談だが、私は「意味」という言葉について長年考え続けていて、これを明確に定義している文献が上がっていたことに興味をひかれた。
いわく、ある事物を事物として統合する絆であり、もしこれを取り除いてしまえば、後に残るのはばらばらの部分に過ぎなくなる、そういったもの。
よくわからないのだが、要するに、「理解」と同意のようにも思える。が、少々足りないようだ。
個人的には、「意味」とは、影響、つまり、それが及ぼした変化の有無と、その内容を指していると、今は考えている。
Amazonはこちら
反教育論 猿の思考から超猿の思考へ (講談社現代新書) 新書 – 2013/2/15
以前取り上げた、下記と同じ著者だった。
「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書) 新書 – 2006/10/21
なぜ生きる意味が感じられないのか: 満ち足りた空虚について 単行本 – 2022/9/27
著者いわく、本書は上記「普通がいい」の次、という位置づけとのこと。
本書の議論だが、どちらかというと、ダメな点を論(あげつら)う方に重点があり、ではどうするかの対処法は薄いという、この手の本ではよくある構成のように思えた。
論旨は、前著とほぼ同じだ。
なので、本書での独自性は、少ない相違点をピックすればよい。
教育を扱った本である。
今の教育は間違っており、正しい教育は違うはずだ、そういう観点で書かれている。
著者は、その差を、サルとオオカミを象徴的に例えて説明している。
まず、サルは、全てを自分の利益のために使おうとする狡猾な動物として設定される。思考が、自分が得をするのか、するとしたらどれだけか、に終始するような人たちだ。
それはつまり、「してもらいたい側の人」、子供そのものだ。
著者は、子供が子供を量産する職務を担っている、と書いている。
ここは、上述の他の著書と同じだ。
対して、オオカミは、一般的なイメージとは異なり、相互信頼による協力に基づいた群れ(社会)を形成する、より理想に近いものを象徴している。
それは、己が興味や欲求も並行して探求し続ける、真に社会的な側面を持つものとして書かれている。
自らの理想や目的を、他人と折り合いながら目指してゆく。
それはいわば、「自力で他人に何かをできる人」、大人の言い換えとも取れる。
サル思考に足りないものとして、嫌悪などの好みや欲求に対する自由、自己への愛などが挙がっている。まず初めに自分を肯定し尊重できなければ、他人を尊重することもあり得ない。教育現場で教えている信頼や尊重は上辺(うわべ)の振る舞いの部分だけであり、これを剥げば利己的な奪い合いや騙し合いに過ぎない、ただの欺瞞であると喝破している。
ではどうすれば、は終章にまとまっているが、それは、野生の回復、と称されている。伝統への回帰により「頭」から「心」へ思考の重心を移すことで、自己愛を回復し、判断力を醸造する、とそんな話になっている。
自己愛は、行き過ぎれば自己満足や自分勝手になる。このバランスをどう取るか。
この2点の課題の解決策だが、やはり、両方とも明示はされない。(オオカミからの)今後の我々の学びにかかっている、といった言及で終わっている。
その意味では中途半端な本なのだが、実際に教育で悩む親、今の教育に疑問を持つ全ての人に、広く示唆というか、ヒントを与えるものではあると思う。
今、我々が抱えている根本的な問題は、多分、我々の世代で解決することは覚束ず、その堕落が為されてきたプロセスと同じ程度の、数世代の時間がかかるものが多かろう。つまり、解決や改善を次世代に任せざるを得ないわけで、世間一般、同種の社会問題の議論が、教育の話に落ち着く、という帰結はよく見かける。
個人的には、そういった「後はヨロシク」的な終わり方は卑怯なようで好みではないが、そうせざるを得ないのであれば、せめて課題と論点の整理くらいはして遺したい。
そのための資料程度にはなりそうな本のような気がしたのだ。
以下は余談だが、私は「意味」という言葉について長年考え続けていて、これを明確に定義している文献が上がっていたことに興味をひかれた。
いわく、ある事物を事物として統合する絆であり、もしこれを取り除いてしまえば、後に残るのはばらばらの部分に過ぎなくなる、そういったもの。
よくわからないのだが、要するに、「理解」と同意のようにも思える。が、少々足りないようだ。
個人的には、「意味」とは、影響、つまり、それが及ぼした変化の有無と、その内容を指していると、今は考えている。
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反教育論 猿の思考から超猿の思考へ (講談社現代新書) 新書 – 2013/2/15
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