読書ログ 「幻の楽器 ヴィオラ・アルタ物語」 ― 2013/04/13 08:26
この本が出た当時だが、あちこちの書評で取り上げられていて。
スゴイ、面白い、とあおっていたので。
実は、人知れず楽器好きなワタクシと致しましては。
あおられました。(笑)
ま、一読はしておこうかなと。
図書館の予約の、長蛇の列の一番最後に並んだのが、だいぶ前。
で、やとこさ順番が来ましたよ、と連絡をもらったので(半ば忘れていたんだけど)、借りて読んだ。
本のサイズも内容も、ほぼ予想通り。
ただの新書だった。
ビオラを奏者の著者が、楽器店の片隅で、この楽器に出会う所から、物語は始まる・・・・・
以下略。(笑)
一般的な擦弦楽器(弦をこすって音を出す楽器)は、バイオリンのように、首もとにはさんで使うタイプと、チェロのように床に立てて弾くものに分かれるが、ヴィオラ・アルタとは、首もとにはさんで使う方の、しかし、妙に大きい楽器である。(YouTubeに映像が出ているので、ご興味がある向きは検索されたい。)
そもそも、楽器なんてものは、その時代時代で、奏でたい音楽に応じて、いろんな種類のものが作られてきた。
今、我々が目にする楽器は、その雑多な系譜のうち、幸いに今も残っているもののいくつかに過ぎない。優れているので残っているのか、衰退途中だが死に絶えていないだけか、の違いはあれ、タイミングとしてラッキーだったから、今、実際に、音を聞いたり、手で触れたりできる。
このヴィオラ・アルタが世に出たのは、ほぼ一世紀前の頃。散逸したとはいえ、当時モノの楽器がまだ辛うじて残っていて、記録や譜面だのといった情報も、辿ろうと思えば辿れる微妙なタイミングにある。それ以前の、完全に途絶えてからの時間が長い代物だと、古びた資料をつなげただけの、カビ臭い古美術研究になってしまったろう。その意味でも、微妙にラッキーなタイミングにある楽器だった、とも言える。
どうも著者は、この楽器に「一目惚れ」したようで、ハナっから「これはいいものに違いない」な前提で、話が進む。
で、いろいろ情報を辿り、掘り起こしながら、「あ、やっぱりその通りだ!」という筋立てになっている。
一応、影の方の記述もある。
廃れた楽器だ。
廃れたなりの、事情がある。
著者が辿り、掘り起こす情報は、掘り起こされる方からすれば、忘れたい、忌まわしいものかも知れない。
そんな、紆余曲折を経つつも。
「影」の方は、「光」を浮き彫る添え物程度であり。
基本的に、ああこの楽器に出会えてよかったあああ調の、シャンシャンで終わる。
まあ、小説仕立ての、ちょっとドキュメンタリータッチの読み物としては、よくできた方だと思う。
一方で、著者の、音楽家としてのマーケティング、地味なヴィオラ奏者としてではなく、一風変わった、ヴィオラ・アルタの奏者(権威?)として、他者と差別化を計るといった意図もあったように感じられる。
楽器というのは、それ単独で、成立しうるわけではない。
何か、奏でたい音楽の方が先にあって、それに合わせて、最適化される方が一般なのだ。
今の日本では、想像するのも難しいかも知れないが。
歌(唄、唱)というのは、ずっと、生活と共にあった。
顔を合わせたとき。集まった時。ハレの場で。呑んだ時。
人々は、歌っていた。
その時に、誰かが後ろで奏でている楽器は、もっと身近だったし、体にも文化にも馴染んでいて、深く根付いていた。
オーケストラのクラッシックだって、本当は同んなじ様なものだ。
ただ、ヨーロッパ(ドイツ)の連中が、途方もなく凝り性だったので、大規模で複雑で、見かけ偉そうになっただけの話だ。(笑)
身に付いた、生活としての音楽。
それを、我々日本人は、失って久しい。
音楽といえば、テレビの歌番組で流れる、バンド構成で3分前後の、あんなのしか思い付かないご時勢になって、もう長い年月が経っている。
だから、私がこんなことを言っても、ピンと来ないだろうとは思うのだが。
著者が奏でたい音楽、著者の音楽性のカラーに、この楽器が合ったということなら、それは幸せなことなのだが。音楽家を稼業として、その差別化として使っただけかも知れない。もしそうなら、音楽のオーディエンスとしては、この本は価値がないことになるが。その辺りの真偽は、この著者が、これからどれだけ、ヴィオラ・アルタを弾き続けるのかで分かるのだろう。
逆に見ると、音楽家がマイナーな楽器を志す時、こういったやり方、まず、その正しい身上を顕した上で取り組むというのは、その楽器が持つ本来の筋を踏み外さずに活動に入るための、よい手段の一つになるかもしれない。
何を言っているかというと、三味線でロックを弾いて売り出す、のような不憫なプロモーションというのはよくあることだが、残念なことに、ある程度の結果(売り上げ)を出したりする。三味線の良さは、それが弾くべき音楽で初めて良くわかるものなのに、そこでの真実、深みのようなものは忘れ去られ、オーディエンスは、三味線でロックを弾くのが「上手い」と勘違いしたまま、通り過ぎ、終わってしまう。それは、音楽家と楽器の双方にとって、不幸なことだ。
個人的な趣味で、撥弦(弦をはじく楽器)ばかりを挙げてしまうが、マンドリン類や、変り種のギター(テナーとか)、民族楽器類(ポルトガルギターやブズーキ)などなど、いろいろな楽器が日本に入って来るご時勢なのに、楽器本来のポテンシャルを出しあぐねている例が多いような気がしている。
稼業としての音楽と、楽器が持つ才能の間に、溝が深いのだ。
まあ、撥弦(ギター系)と擦弦(バイオリン系)では、市場のケタが違うので。本を書いて小遣い稼ぎ、とは行かないのだろうけど。
実は私も、珍しい楽器はいくつか持っていて。これを弾けたら「死んでもいい」という、情熱だけはあるのだが。どうも、まるで才能が無いようで、「好きこそ物の」の方ではなく、いつまで経っても「下手の横好き」だ。
そのおかげで、音楽では死ねそうにない。
ラッキーと、喜んでいいものやら。(笑)
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幻の楽器 ヴィオラ・アルタ物語 (集英社新書)
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