バイクの上半分 11 ― 2013/09/29 05:53

本書によると、「コーヒーを、どうやって飲んでいますか」という質問に、正確に答えられる人はいないそうだ。
「コップの中のコーヒーを、口に流し込んでいる」
いや、それだと、コップの高さを、えらく上げないといけない。
「ズズズーっと、すすり込んでいる」
半分正解。
では、どうやって、その「負圧」を作ってんでしょう?。
うるさい質問だが、要するに、人間は普段、えらく面倒な物理現象をしれっと制御しているのだが、実際に、何をどうしているのかは全然知らないし、知らなくてもできている、という例の話である。
類例は多い。
人間の行動のほとんどが、類例だ。
文字を書く。
これが、どんだけややこしい仕事か。
いつもとは違う方の手で書いてみればわかる。
えらく汚い字になるのだが、その、のたくり加減が、まるで、小学生あたりの子供の字にそっくりなのだ。子供の字が汚いのは、不注意や不真面目なのではなく、まだ不慣れなだけかもしれない(無闇に怒っても直らない)とわかる。
漢字とアルファベットで、使う手の筋肉が全然違うんだな、などと妙な発見もしたりする。
テーブルの向こうにある、しょうゆ差しを取ろうとする。
テーブルには、皿やらコップやら、雑多なものがランダムに乗っている。それらを避けて、安全確実なルートでもって、手を伸ばさないといけない。
いつぞや、脳科学の本で読んだ話だが、この時、人間は、テーブルの上の状況を、精密な3Dマップでもって、脳内にイメージしている。そうして、その合間を縫うルートを策定し、実際に、その通りに手を動かす。「無意識に」
球技のスポーツなんかだと、状況はもっと凄くて、球の弾道を「3Dで」正確に予測し、それを打ち返すのに間に合うタイミングを図って(時間分解能が加わってマップは4次元化する)、予め体制を整えて、打ち返す。これを、延々と続けたりする。
この、人間の認識マップの正確さ、素早さは特筆物であり、かつ、人間の動作が、単純な要素の繰り返し(What、何をするか)にとどまらず、その場の状況に瞬時に最適化したものに昇華する能力(How、どうやるか)の源になっていると。
子供というのは、小さいうちは、テーブルの上のものを、実によくこぼすものなのだが、これは、この「3D認識能力」が未熟なためだ。不注意が原因ではないので、怒ったり怒鳴ったりしても改善しない。「ほら、コップをここに置いたよ、こぼすなよ、」と、情報を意識的に入れてやって、この能力に訴えるようにしてやると、ほどなく、こぼさなくなる。(ウチの子供が小さかった頃に、実験して確かめた。笑)
行動を最適化して、無意識に落とし込んで行く。
いわゆる「適応」だが、しかし、その量は、無尽蔵ではないだろう。
ものを憶えるのは若いうちだし、歳を取ると、不可能とまでは行かないまでも、相当にペースが落ちる。
無論、衰えもする。
自転車の乗り方は、年を取っても憶えている、と 以前 書いたが、まるで忘れ去ることはないとは言え、完全に昔通りとは行かないだろう。
「行動プログラム」は、センサー(五感)によるセンシングと、プログラムによる判断と、アクチュエーター(筋肉)による動作の3つが、間断なく、相互に作用して作られている。もし、どれかが衰えて、結果(行動)に不具合が生じたとしても、問題がどこにあったのかは、一見では判別できない。
単純化して書くと、
行動=五感×判断×動作
なのだが、「行動」がゼロだったとしても、「五感と判断と動作」のどれがゼロだったのかは、それだけではわからない。(もっと数式、データが要る。)
まあ、わかったとしても、変化は不可逆(老化)だったりもするので、歳を取ると、新しいことを憶えるよりも、それまでに憶えてきたことで、何とかする方を好むようになったりする。(めんどくさくなる)
私も、既に人のことは言えないお年頃だ。
気が付くと、私の手元にある数台のバイクは、見事に全て、年式が80年代だったりする。意識して同年代を選んだわけでは、決してないのだが…。
古くからの言い方では、「縁」などと、美しく丸めもできるが。私の身体(プログラム)が、それを憶えた年代から、さほど動けていない証とも考えられる。
実際、人が作れる「プログラム」には、限りがある。
だからこそ、その蓄積に意味(実効性)がないと、人生は、味気ないものになってしまう。
ところがだ。
現状は、逆に行っているようだ。
人が道具を選ぶのは、需要と供給のカーブの交点で、大量生産品の中から、一つだけを選び続けるのが、唯一無二の手段になっている。
なのに、せっかく選んだ道具の方は、どんどん寿命が縮んでいて、ヤレてしまえば、入れ換えざるを得ない。
もし、バイクと一体になったMan-mahine system が正しい方法なのだとしたら、それは、重大な示唆だと思う。
まず。
バイクの運転の複雑さは、生半可ではない。
他方、普通の一般ライダーは、そうそう乗れる時間を潤沢には持てない。
つまり、普通のライダーが、まっとうなMan-machine systemを構築するには、相当な時間がかかる。
そうして、「プログラム」を構築した後に、やっと、楽しむ時間が来る。
そういう構造になっているのだ。
だから、簡単にツブれるような道具は、使い物にならない。
どれだけ長くもつのかが、重要な判断基準になるのだ。
私が、バイクの評価をするとき、寿命を執拗に気にするのは、そのためだ。
次に。
注意すべきは、そのプログラムの「出来上がりの姿」だ。
もし、「すぐに乗れるドカティ」があったとて、そんな物に何の意味がある?。
まず初めに、こりゃエライものを買っちまった、と後悔するのが「お決まり」だった。
でも、これをイイと言っている奴らもいるし、現に、目の前をスイスイ走っていたりもする。
何でだろう。納得できない。
もう少し、乗ってみよう・・・。
考えて、乗り込んで、話し合ったり(情報交換)、大小のルビコンを渡ったり(笑)しているうちに、時間が経つ。
そうして、ある日、
「ああ、ドカティって、こういうものだったんだ。」
と、「腑に落ちる」瞬間が来る。
その頃には、人間の方は、すっかりドカティに馴染んでいて、「ドカティ - 人間システム」の一部と化している、という訳だ。(笑)
いつぞや、有名なドカティのスペシャルショップのオーナーが、「ドカティを初めて買った時、抱いて寝ようかと思った」と言っていた。
たぶん、これは、間違いだ。
「随分、迷いも苦労もしたが、気がつくと、一緒に暮らしてるなあ・・・」と、振り返って、しみじみ思う。それが、「残った連中」の実態のはずだ。
「ドカティ」を、BMWやハーレー、Triumphに変えても(無論、Moto Guzzi にも)、ほぼ同義である。
そして、馴染んで、使いこなせるようになったその先、そこから、「乗る楽しみ」を満喫する時間が始まる。
つまり、Man-machine system の姿が、「楽しい時間」の質を決める。
「乗るのが楽しい」
四輪よりも実用性に劣る(荷物が積めない、風雨にさらされて疲れる、転倒のリスクが大きい)こんな乗り物を好む理由は、そこにしかない。
バイクの楽しみの本質は、乗ること、操ることの楽しみ、つまり、「プログラムの出来」そのものなのだ。
私は、LeMans に、かれこれ20年以上乗っている。
Man-machine system、「人車一体」には、まだまだ程遠い。
とは言え、さすがに、すっかり馴染んだ感じはあるし、しばらくのインターバルの後でも、乗った瞬間に「ああこれだ」と、身体が憶えている感覚は、抜きようもない。
Moto Guzzi のエンジニアが、奥深くに包んだ、公道バイクとしての種。
それを育てるプロセスは、十分に楽しかったし、今も日々、楽しめている。
つまり、Moto Guzzi は、この20年後の姿を、ある程度、見据えていた。
しかも、その予測のかなりの部分が、的を得ていた。(たぶんに、ラッキーもあると思うが。)
いつぞや、国産の名車、CBやZ2に何十年も乗り続けているヤツっているのか?と書いた。他方、大枚はたいて名車を手に入れても、さんざいじくり回した挙句に、放逐してしまう例も多いようだ、とも。
それは、国産のバイクに、育てるべき種が仕込まれていない証なのではなかろうか。
(種がない畑を、いくら耕しても、芽は出ない。)
ものづくりは、「量産効果」で回っている。
たくさん作るほど、値段は安く、品質は安定する。
だから、ライバルを差し置いて、売れるようになる。
つまり、「量」を作れる「大手」しか残らない。(集約していく)
そして、「大手」を支えるには、「量」が要る。
このループを回すことで、ビジネス(金銭で見た「生活」)は、維持されている。
本質的に、そういう仕組みである。
残念なことに、そのループの中で、ユーザーは、ただの統計値扱いだし、ましてや、Man-machine system は存在しない。
思うのだが、最近たくさん出ている、安くて乗りやすい新型バイクの数々は、この、プログラムの熟成のプロセスを、否定しているのではないか。
顧客が、既に「適応」の適齢期を過ぎた世代だから、それに配慮したまで(適応しないでも乗れる、適応の手間が不要)という解釈も、(善意で見れば)できるかもしれない。
ただ、上で見たように、公道バイクの楽しみの本質が、「乗ることのプログラム」そのもににあるとしたら、それを否定したバイクが楽しめる時間というのは、永遠に来ないことになる。
そして、何度でも言うが、Man-machine systemの実情(公道)を無視して、「限界性能」を「スポーツ性」として偽装したものも、同罪だろう。(プログラムの熟成より、破壊のリスクの方が大きい。限界を使わなくて済む特性の方が、公道では合理的なはず。)
実用がお目当てのスーパーカブ(仕事バイク)でもって、量にリーチするのが目標というなら、「乗ってラク、これ即ち善」なのだろうが。現に、みんな「大手」になった今のバイクメーカーは、それだけでは食えない規模だと思う。(機能OKの考え方で、顧客の軽自動車シフトが進む、クルマ業界の恐怖が傍証である。)
何となく、ものづくりを標榜して飯を食っている(はずの)我々日本人の仕事が、明日を夢見ることができない「構造的な原因」を、バイクが、端的に表しているように思えて。どうにも、やるせない。
どうだろうか。
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さて。
本書に取り掛かってから、ほぼ1クールを消費したわけだが。
実は、まだこれしか読んでないんだよね。

ま、ライフワークとして、ボチボチ続けますが。
正直、ちょっと飽きてもきたので。(笑)
適宜、他のものも挟もうかと思っている。
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The Upper Half of the Motorcycle: On the Unity of Rider and Machine
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