読書ログ 責任という虚構 ― 2016/01/03 13:50
本年の初めは、「責任」について書く。
このブログで、過去に何度か、私は「責任」について、よくわからない、と書き続けてきた。
二言目には「責任」を言い放つ人が多いと感じる今日この頃だが、その彼らが「責任」を口にする時、一体、具体的に、何を要求しての発言なのか、よくわからない事が多い。
実際、「責任を取れ」の意味は、いろいろある。
・謝れ、つまり謝罪の要求
・(一人で)やり直せ、あるいは、その手はずを整えろ
・元通りにしろ、つまり現状復帰
・弁償しろ、つまり金銭的賠償
・辞めろ、つまり地位上の座(ポジション)の放棄や辞退
・裁判などの法的判断や、慣習など各種のルールに従うこと
・死ね、つまり命を持って償え、切腹の要求
ちなみに、若い女性に「責任とってね」と言われたら、それは「入籍という法的手続き」の意味だろう。
かように様々で幅の広い、つまり「いいかげんな」言葉である「責任」だが、その響きだけは、やたらと重いのが通常だ。思うに、この、のっぴきならない重さでもって相手を追い詰めたり、または逆に、相手を追い詰めることができる自分の立場を見せつけたり誇ったりしたい場合に、より効果的に使われているようにも見える。
つまり、人は「責任」を言う時、相手をできるだけやり込めたいという意思が表れており、その裏には、糾弾を可能にしている資格なり道義的な立場なりを自分が得ているという前提がある。詰まる所、彼我の差を見せ付けるポーズがその目的の大方を占めており、現実に何かを成し遂げたい類の欲求はなかったりする。実質的な意味はないのに、響きだけは無闇に重いから、議論を停滞させる効果だけを発揮して、結局、何も決まらないという事態も、現実では、よく目にする。
だから、例えば会社の会議などで、何か実効的に意味のある決定をしたいのであれば、「責任」は禁句にするといい。あらたかな効果が現れるはずだ。
などと言っても、粗方の「責任・原理主義者」または信奉者には、信じてもらえないだろう。そのためには、「責任」という言葉が持つ欺瞞性を実証的に検証し、それがまとっている悪のフォースを暴かねばならない。
本書は、その論拠をふんだんに与えてくれる。
その意味では、半分くらいは、私が予想した通りの本だった。
要するに、「責任」という概念の、いい加減さについてだ。
「責任」という概念の裏には、「主体」という前提がある。人は全て主体的な存在であり、自分で判断して行動を決めている。だから、道義的、法的、経済的に何か「悪事」を為した場合、それは彼が判断してやったことだから、その責任も彼が取るべきと、そういう理屈になっている。
しかし、人間の主体などあやしいものだ。彼が逐一、自分で判断しているわけではないことは、例えば、社会学的な実験や(人の判断は周囲の環境に流される)、脳科学的にも実証されている(意識は行動より後に来る)。
さらに、人は、自分の判断ではないと考えること、つまり「誰かのせい」にすることで、平気で悪事を働ける。これは、アウシュビッツの例が、くどい位に挙がっている。
象徴的な例で言えば、死刑執行のスイッチを押す係は、一人ではない。何人かが並んで、同時に同じようなボタンを押す。実際に動作するのは一つだけで、残りはただのダミーなのだが、どれが「本物」かは、誰にも分からない。そういう仕組みにしておくことで、スイッチを押す係の人間が、それを押すことをためらったり、押した後で責任感に苛まれて精神的に病んだりする事が、かなりの割合で避けられる。
しかしそれは、「スイッチ係の人間のことを思っての措置」ではない。虐殺という行為を、淀みなく効率的に進めるために、合理的なドイツ人が導き出した、ただの「論理的な答え」なのだ。
さて、この場合、言われるままに繰り返しスイッチを押し続けたアウシュビッツのナチスには、「責任」は問えるのか?
ガス室の入り口で、子供を二人抱えたユダヤ人の母親に、無慈悲なゲシュタポが言い放つ。二人の子供のうち、一人だけ助けてやろう、どちらかを選べ。母親は当然、そんな要求は拒否する。しかし、じゃあ二人とも殺してやる、というナチスの言葉に、とっさにどちらかを選んでしまう。この母親は、この後永く、道義的な責任に、激しく苛まれ続けるだろう。しかし本当に、この母親に「責任」はあるのか?。質問を替えてもいい。あなたに責任はありませんよと、いくら母親に声をかけたところで、何か救いになるのだろうか?
死刑囚は、その凶悪なイメージとは異なり、意外と朴訥とした素直な人格が多いそうだ。それは、彼が犯した凶悪犯罪が、彼自身が凶悪であったり、凶悪な判断をした帰結によるわけではなくて、ある意味、そういう状況に追い込まれた結果、止むをえず至った行為だったことを示しているのかもしれない。人の行為や判断が、その意思だけに依っているわけではないのは、上のアウシュビッツのスイッチ係や、不憫な母親の例を見返すまでもなかろう。たとえ死刑囚の彼を釈放しても、再び再犯に至るとは到底思えないような場合でさえ、彼の「責任」は彼の生命で償わせるというやり方は、妥当なのだろうか?
その一方で、特攻の出撃指示を出しておきながら、戦後、のうのうと生き延びて、あれは俺のせいではない、時代の雰囲気のせいで仕方なかったのだ、と言い放つ元日本軍将校には、本当に責任がないのか?(実際に、裕福に天寿を全うした例は多数ある。)
人間が捉える「因果」などというものは、見つけられた要素のうち、都合がつくものだけを繋げた、適当な筋道に過ぎない場合が多い。それはほとんどの場合、真実とは異なる、全く別の作り話だ。それどころか、もっと悪いもの、例えば、誰か別人による、単なる「責任転嫁」である場合も、少なくないのだろう。
冤罪は、なくならない。「罪」それ自体が、まやかしである場合が多いのだから。無理もないのだろう。
(続く)
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読書ログ 責任という虚構 その2 ― 2016/01/10 07:49
先週 の続き。
本書の、残りの半分にも触れておく。
私にとって、予想外だった内容についてだ。
私は、「責任」そのものを糾弾し、退けることで満足していたのだが。
本書の著者は、その正体を暴く所まで行ってくれている。
責任の正体は、そのあまたの意味のうちの、最大のものである「罰」の一つ、「群れの掟」だと、一刀両断にされている。良く言えば「社会的規範」、それに反したものを社会的に罰し、見せしめにすることで、抑止力とする。そういう力学に則って、運営されている暴力だと。
「社会的規範」には理由がない。後付でくっつけた理屈はあるかも知れないが、大概は「掟」のように「昔からあるもの」、せいぜい繕っても「文化的なもの」だ。確とした基準ではないから、社会によって規範が異なる。例えば、死刑になる犯罪の重さは国によって異なるし、死刑がない国もある。だから、自分に課された「責任」に理屈を求めても、確かな説明は返って来ない。元となる「規範」自体が経験則や慣例であって、本来的に曖昧なものだからだ。
「責任」が、時に、いや、かなりの確率で、感情的な盛り上がりを伴って、非常に無体な措置に至ることがままある。「自己責任」を旗頭に弱い個人を糾弾する人間は、「体制側」の認識に酔っている。感情的に悪を糾弾する人は、正義感に駆られてのことかもしれないが、正義感に酔っているのと、大概は区別がつかない。
犯罪者のみでなく、その家族まで吊るし上げる(社会的に罰する)ことは、今でも普通に行われているが、そんなことは法律には書いてはいないし、「責任」のありかとしては、全く妥当ではない。親の因果は、子に報いない。そんな因果があるとすれば、親に報いるはずなのだ。なのに、そんな「制裁」が、いまだに是とされている。
何故か。
全部、「責任」が、「社会規範を犯したものの吊るし上げ」だと考えれば、納得が行く。
糾弾する方は「正しい」のが前提だから、反論するのは面倒だし、時に許されもしない。議論は進まないし、少なくとも、建設的な方向に進む事もないから、実際に、解決の役に立つことは少ない。また、目的が「見せしめ」だから、責任を負うのは「個人」でなければならず、実質の所は「誰でも良い」。だから、たとえ罪を犯したのがグループだとしても、それが丸ごと罰せられることは稀で、最も罪が重い(とされる)個人が責任を負う役を担う。部門長や社長なんかのクビで「みそぎ」とするのは、良くあるケースだ。
罪人の特定には、かようなプロセスが必ず入るから、必然的に、冤罪の可能性を、どうしてもはらむ。刑事事件の場合は、解決に当たるのが警察という官僚組織で、実質的な「真相究明」よりも、形式主義や前例主義、つまりは「終わったことにする」式の力学が働くから、尚更だ。我々が、「グループを罰する」手段を持つことができれば、きっと、一歩先に行けるのだろう。企業の不祥事のような「組織の瑕疵」の根絶に向かえるからだ。
本書に戻る。
本書は、その題名とは違って、責任を糾弾するために書かれた本ではない。
本書を著す動機は、「他者性」だとある。
他社とは何かを考えるということは、他者の目に写るもの、つまり自分について、外側から考えることである。自分と他者を違える線の形を描くのだ。
言い換えると、「責任」などと言い放って安穏としているのは思考停止だ、一体自分は、何を拠り所に喋っているのか、少しは考えようと、そんなことだろう。
我々は普段、数々の歴史的な変遷を経て、熟成だか進化だかをしたはずの現代は「正しい」と、何となく、思いこんで過ごしている。民主主義とか、立法国家、人権、「科学」といった辺りがが、安心材料になっているだろう。だがそれらは、古くは「神」だったり「ムラ」だったりしたのと同じ類の、人間が作り出した、架空の枠組みなのかもしれない。
一般化して書く。
人間が社会的な生き物である、つまり、社会を形作る性質を持つということは、社会を保つための「外部」、社会とその他を区別する「線」を必要とする。社会の内部で、それに従って生きることを是とする人間には、その「線」の是非を論じる自由はない。ただ、信じるのみである。もし、それでも足りなければ、その「線」を書き換える作業をただ淡々と続けるか、あるいは、何かしらの理屈を後付で作り上げて、安心しようとするのみだ。
人間が社会的ということは、とりもなおさず、自分の外に拠り所を必要とするということだ。その用途で、宗教とか国家とか、そんなものが便利に使われているのだろうし、「唯一の真実を求めて、論理的に突き詰めて考える」ことが、真面目に見えたりするのだろう。
でも、それでは、足りない気がする。
せめて、矛盾を認識することと、他人の矛盾を許すことは、必要だと思う。
個人的には、矛盾を楽しむ余裕、つまり、楽しめる矛盾を峻別できる実力くらいは、保持していたいと願っている。
「責任」については、「担当(の長)」くらいの意味で捉えておいた方がいいだろうと考える。
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読書ログ イスラムの読み方 ― 2016/01/16 11:19
「イスラム何とか」のご活動について、喧しく聞く。
具体的な被害としてはまだ国外がメインで、身近に直に被害が発生しているわけではないようだが、事態は由々しき方向に進んでいるのは察しがつくし、可能な限り事態を把握・理解して、何らかの対策を具体化しておきたい欲求に駆られる。
とはいえ、イスラムどころか、宗教と名のつく粗方のものごとに、本当に馴染みが薄いイチ日本人としては、この事態が、果たしてその組織が名乗るが如くの、イスラムの思想を反映したものかすら、理解が覚束ない。
仕方がないので、手っ取り早く、誰かに教われないかなあと、手に取った一冊だ。
(その用途にはこれが一番だと、どこかに書いてあった。)
同じようなことを考えている人が少なくないのか、図書館には2冊の蔵書があったのだが、両方とも出払っていて、しばらく待ってやっと借りた。
2005年の刊だが、実は1979年に刊行された古い本に、少々の追補を加えた再販本である。著者は2人の名前になっているのは、初めの刊行が対談だからだ。
著者の一人、山本氏は、ユダヤ系の宗教書を発行する書店を経営する程のこの道のエキスパートで、セム族系の宗教の歴史には大変に詳しい。著書も多くて、宗教関係に留まらない、日本の社会・文化に対する鋭い批判で有名だ。私も以前、 ある異常体験者の偏見 や、 日本はなぜ敗れるのか 、 「空気」の研究 の辺りを、唸りまくりながら読んだ記憶がある。
もう一人の著者である加瀬氏は、よくは存じないのだが、本書の紹介には、ユダヤ・イスラム関係に詳しい外交評論家、とある。
本書にはまず、1979年にこの二氏が対談した内容が再掲される。1973年の石油ショックを経て、日本にも中東に対する興味が湧き始めた所に、ホメイニ革命が起ったりして、イスラム関連の情報にニーズが出てきたので、それに応える内容だ、とある。
続いて、9.11の米国テロを背景として、加藤氏が、その後の成り行きも含めて、1章を書き足している。(山本氏は91年に既に亡くなっている由。) 新規追補とはいえ10年前の内容なので、タリバン~アルカイダまでで、IS~ボコハラムには至らない。
前半の、35年前の対談は、「今読んでも色あせない有用な内容であり、多少の注記を加えて再掲した」とのことだが、確かにその通りだった。
今、テレビやネットのニュースなどで語られるイスラムのイメージは、ほとんどが「伝聞」だと思う。ちゃんと調べたり、確認を取った「報道」と言えるレベルではなくて、誰かが語った、もっともらしい、または都合のよい内容がリピートされているに過ぎないのだろう。その証拠に、内容の根拠が示されることはほとんどなくて、「伝えられるところでは」調の物言いが多い。
本書の内容、特に山本氏の語る内容は、自分で文献を当たり、関係者に聞き、実地に確かめた情報を一本に紡いだ結果なので、論の芯が太く、確かな説得力がある。
その内容を、以下、断片的だが引用してみる。
イスラムは、キリスト教のように政教分離を経ておらず、政治、経済、国家的な事柄から、生活にごく近い細々とした事柄に至るまでの、全ての概念を含んでいる。だから、西洋的な「国家」の概念で彼らの国を眺めると、間違う。(宗教の方が上位概念で、宗教が国家を含んでいる。)
社会の構造としては、血縁同族を基盤とした運命共同体が基盤として受け継がれており、そこから出てしまうと生きて行けない、そういう感覚が今なお強い。社会の構造として、旧来の枠組みを踏襲している。
中世では、西欧キリスト教社会より進んでいたので、十字軍などは実際の所「お勉強ツアー」だったりしたものだが、その後の、トルコに支配された時代に停滞したため、西欧に追い抜かれ、落ちぶれた。かつて栄華を極めたのに、今や圧倒的な差がついてしまい挽回が難しい。そういった情勢を背景にした、劣等感が根深い。
宗教の成立の過程で、砂漠から都市へ、農化を経ずに来たために、勤勉や清貧の思想がない。だから、アラブの富豪の贅沢は度を越しているが、「持っているものを使っているだけ」で悪びれることはない。また、進歩の思想がなく、「今が続くだけ」。だから、考え方は基本的にゼロサムだし、コーランの読まれ方も、新旧聖書のような「歴史書」としてではなく、「今朝届いた新聞」のような感覚で読まれている。
他の聖書と同様、コーランの内容にも矛盾は多い。宗教国家が近代化を図ると矛盾をはらむ。だから、聖書の内容を都合よく引用する事態は後を立たない。その辺りを相対化してやるには、ユダヤに対するシオニズム(内なる反逆者)のようなものが必要かも知れず、PLOがそうなるはずだったのだが、結果としては違ってしまった。
パレスチナの歴史と、現在の各国の状況は、日本人の知識やイメージとはかなり異なる。アラブは、基本的に、パレスチナに興味がない。
70年代までは、中東の各国も宗教の枠組みを脱し、社会主義的な近代国家に向かう動きが、一旦、顕在化したが、オイルショックを経て流入を始めた莫大なマネーのせいで上流層が腐敗し、庶民の不満が蓄積した結果、宗教的な厳密さを取り戻すべきという思想、いわゆる原理主義が台頭し始めた。その後、ソ連のアフガン侵攻に危機感をいだいた合衆国が、対抗勢力として原理主義者の武装化を支援したのが、その台頭を決定付けた。この武装勢力は、以後も分派・継続をし続けて、今のタリバン~アルカイダに続く流れとなる。イスラム原理主義の伸長は、西欧が自から招いたものだ。
・・・本書を一読すれば、イスラム的な考え方の何たるかが、おぼろげながら形を成すのだが。やはり、理解は難しく、想像の域を出ない。
過去の栄光にこだわって、今を大事にしない所。
簡単で便利な答えに、暴力的に至ろうとする性向。
国家より優先する何かを、生活の基盤の所にはべらせて、美しいと感じている所。
・・・といった断片だけを抜き出すと、何となく、日本人とも、よく似ているような気もするのだが。そんんなのはただの表層的な理解で、実体は全く逆・・・いや、逆とか違うとか、簡単な差異ではなくて、異次元というか、ねじれの位置というか、全く別、なのだろう。
それに、理解できるかどうかは問題ではない。(理解した所で、解決法が見えるわけではない。) 対話を拒み、暴力のみに訴える傾向を増すだけの相手に対し、何をすべきかが事の本質なわけだ。
かつての栄華を抜き去った相手を感情的に卑しめる、誇り高い人々。
自分の悪い面と、相手の良い面は見ようとせず、力だけを信奉する人々。
未来に進むのではなく、昔の栄華に戻ろうとしている人々。
・・・その意味では、隣の大国とよく似ている、とは本書の最後にも出る話題だ。
その辺の議論の結論としては、30年以上前に書かれた本書の前半で、「単に、付き合い方を見つけるかどうか、それだけの話だよ」と既に喝破されていて。確かに、その通りなのだろう。
本書とは全く別の、ネットで見かけた記事なのだが、合衆国でも、9.11テロの後に、我々(アメリカ人)に歯向かう、このイスラムとは何者なのかと、調べたり考えたりする人たちが増えていて、かえってイスラム的な世界観への感化を促す結果となっている、それが、西欧各国からISに向かう層の一部を成している、とあった。
その、「感化された彼ら彼女ら」のいわく、人間の何たるかや、神とのかかわりについて、悩みに対する解決法が体系的に用意されている、素晴らしい、とそんなことのようなのだが。ここの文面だけ見ると、かつて、オウムの信者が言っていた事と妙に似ていて、気味が悪い。
質・量問わず、人は、何か圧倒的なものに触れたとき、それに「帰依」してしまうということがある。相手が「神」の場合に限らず、下は、例えば「高級車」の場合などにも見られる現象だ。
だが、我々が科学を信仰しているのは、宗教と同じ理由、合理的で、感覚的に真実に近いから、のようにも思う。根は同じなのだろうか。
単純に、宗教というのは、純度や完成度を高めると、その外にあるものを破壊し始めると、そういう原理を示しているのか。
人間は結局、自分の価値体系とは異なるものを、本能的に破壊しようとする、そういう動物なのだ、それが原理だと、そういうことなのか。
と「原理」が相次ぐと、何だか「原理主義」じみて来て剣呑だが。
いやいや、そんなに難しい話ではなくて、深遠な思想から派生した現象ではなく、実質は、宗教にかこつけた「ぶん取り合い」であって、虚栄心や優越感などの自己満足を、暴力によって満たす手段として、宗教が便利に使われているだけだ、というのが「もっぱらの下馬評」のようだが。やはり、簡単に受け入れてもらえるお手軽な報道用の、便利な解釈、方便、または偏見、のように感じる。
相手は自分とは根本的に異なるものの考え方をする人々で、その裏側には「イスラム的なもの」が、程度の差はあれ下支えになっている。そういう前提で当たらないと、解決はおろか、理解すら覚束ないように思う。
自分と違う相手を認めること。
これができなければ、相手と同じなのだ。
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私が読んだのは単行本だが。
イスラムの読み方―なぜ、欧米・日本と折りあえないのか (Non select)
新書版もあるようだ。
イスラムの読み方 (祥伝社新書)
読書ログ China 2049 ― 2016/01/24 13:57
長い間、US政府関係で「中国係」を勤めていた著者が、中国の本性について、最近「思い改めた」内容を記した本だ。
日経BPによる刊行で、日経の関係サイトでも、著者インタビューを初め、いろいろとプロモをしていた。露出度が高かったから、私も何度か目にしていて、初老の著者が訥々と語る「改心」に興味を覚えはしていたのだが。ちょうど正月休みに図書館から借りられたので、読んでみた。
古くはニクソンとキッシンジャーの時代、つまり、二次大戦後に米国と中国の外交が本格化した辺りから、両国の思惑と情報戦などの裏方を含め、その解釈と変遷、根拠などを、ほぼ時系列に解説している。
注や解説を含めて400ページを超える厚い本で、記述も緻密。要は、かなり「くどい」本である。この手の「外交モノ」の常で、全てが書いてあるわけではないようだが、一応、筋として一本につながる程度の配慮はされていて、物語としても、筋を追いながらフンフンと読める。とはいえ、一通り目を通した後で、全部並べてバッと展開してみると、あちこち空いてんなあ・・・といった感覚は残る。たたんだ布を広げてみたら、あちこち虫が食っていて、向こうが透けて見える・・・といった感じだ。
それでも、この初老の、つまりは老練な、豊富な経験を誇る紳士が、その認識を180度 翻すに至った根拠は十分すぎる程に伝わってくる。著者による「中国の核心」とは何か?、読む価値はあった。
いわく、中国の世界観は、それが紀元前から経験してきた戦国時代、群雄割拠があらゆる手段を交えてやりあいながら、栄枯盛衰を繰り返す、その情景を、そのまま今に投影したものだ。基本的にゼロサムで、やられた分はやり返す、そうでないと「損」。最終的に勝った者が「善」であり、それ以外は「誤」だ。無論、暴力も使いはするが、それだけは十分ではない。むしろ、あらゆる知識と知恵を総動員した「騙し合い」の方が大きな割合を占めていて、例えば、力で勝る相手に、力で挑むのは馬鹿のやること、相手が反撃できないように、あらゆる手を用いて十分に状況を整えてから、武力「も」使うのが正しいやり方、とされる。そのために待つことが必要であれば、何十年でも待つのが正しい。無論、力で劣る相手に武力を用いるのは、全く何の問題もない。
中国では、その大昔の戦国時代のあらゆる局面の逐一について、今でも教訓として残されていて、例えば、「紀元前何年にどこと誰が戦ったこのやり方を『ナントカ』という四文字熟語で言う」のような形で多数、流通している。これが、中国人の間でしか通用しない隠喩として、特に政策決定に関わるような(軍部を含む)政権中央部で普通に使われている。(これが分からなかったので、米国人である著者が中国の本質を見抜くのに無駄な時間を長く要した。)
二次大戦後の中国は、貧しくて弱かった。だから、西欧列強に対して下手に出ることで、アヘン戦争からこっち、やられた分を取り返す作戦に出ていた。ソ連との中が悪くなった60年代に、米国を盾として利用しつつ、その技術的・経済的な優位を吸収すべく、ニクソン政権にラブコールを送る。これにまんまと騙された米国は、「可愛そうな中国を助けるために」技術やら資金やらの数々の支援を「プレゼント」し続けていて、この状態が、今に至るまで継続している。
中国にとっては、無論、米国も倒すべき群雄割拠の一つである。ただ、米国に力で劣る今、それに向かって、あからさまに牙を剥くのは利口なやり方ではない。本心を隠し、弱者の挙動に徹して、相手の力を利用しつつ、時を待つ。「待てる胆力」もまた、実力の内なのだ。
ひたすらに「弱い中国」を演じ続けてきた中国だったが、その転機となったのは、天安門だったとある。あの時、広場に集まり「よりよい中国」を心から訴えた若者達を、中国の支配者達は武力で抹殺したが、それに至ったことそのものを、国家の危機と理解した。利用していたつもりだった米国に、実は逆に侵食されており、下層の国民は既に、その価値観に絡み取られていた。米国は、実はずっと中国の政体を転覆しようと画策し続けており、中国はそれに気付かなかったのだと、そう考えるようになった。
以降、1990年から、中国は、歴史を書き換えた。「愛国教育」と称して、国内で教育する歴史に関し、米国を「悪者」として書き換え、「悪の枢軸・米国」による画策が、中国の発展を妨げ続けてきたという歴史観を、徹底的に教え込む事にしたのだ。実際は、米国が差し出したのは「助けの手」で、それは中国も認識していた、というか、中国自体がそのように画策していたはずなのだが、にもかかわらず、その逐一は、悪意がこもった「陰謀」として描かれることになった。
その「歴史の書き換え」は、米国の「侵略」に対抗する処置の一つだったはずなのだが、その教育の成果である若い官僚はもとより、それを画策したはずの上層部でさえ、それを頭から信じるに至っているのだそうだから、始末が悪い。
しかし、米国にそれを気取られるのは得策でない。外交の表向きでは「親米の弱い中国」を演じるハト派対応を前面に出しつつ、国内では「打倒米国」を浸透させる二面性を保持し続けてきた。これを可能にしていたのは、まず、米国自体が、従来の「弱くて助けるべき中国」を信じたかったからであり、次に、中国が、政権にとって望ましい情報だけを流通させる、強力な情報統制力を備えたからだった。
情報を統制し、戦略的に用いることは、中国的な戦略思想の根幹にある重要事項の一つである。中国は、常にその方法をコストをかけて画策し続けてきたし、今では、国外に対しても、その力を誇示できる程の実力を備えている。中国当局によるハッキングが云々というニュースがたまに出るのは、そのほんの氷山の一角で、ただ情報を統制するだけではなく、有事の際には、情報網の遮断や破壊、乗っ取り、誤情報の流布など、ありとあらゆる手段を行える準備が、今や整っている。
・・・と、ほんの一部だけを紹介しただけでも、これだけオドロオドロしくなるわけだが。
まず、米国も中国も、チキンであることでは、よく似ていると思った。
米国は、殊に武力に対しては臆病なことが多くて、相手が、その小さなピストルに手を伸ばす「そぶり」を見せただけで、原爆をしこたま打ち込んで抹殺してよいと、本気で思っている連中だ。中国も、自分の意図を挫かれることには非常に臆病なようで、表に裏にあらゆる手をツムツムと打っておきたい性質では変わらないようだ。
日本も、声高に非難できたものではないのだ。「自分に都合のよい解釈に改めて、その中に閉じこもっていたい」性向などは、よく似ていると思う。(あるいは、かつて中国から学んだとか。)
まあ、中国との付き合いは、米国よりは遥かに長い日本だから、上記のような「中国独自の価値観」を聞いても、さして驚かないように思う。ああ、確かにそういう人たちでしたよね、孔子だか孫子だか、三国志だかで見たことあるよな・・・位のもので。
ただ、米国には難しかったのだろう。「中国流」を理解するのは、他国の価値観に配慮する必要がない(端的にはその能力もない)上から目線の西欧列強には難しかったろうし、まずその一線を越えた後でないと、自分が騙されていることすら思い至らないのだから、2重のハードルが課されていたことになる。恥ずかしいまでに明け透けな、徹底した自由主義国である米国は、中国にとって、くみし易い相手だったのだろう。
最近、中国は、アジアの近隣は無論のこと、米国に対しても大きな態度で出ることが多い。これは、中国が、状況は既に「待ちの段階」を抜けたということ、つまり、幾つかの面で既に米国を凌駕しており、一朝一夕には逆転されない程の差をつけているから、表立って反撃しても大丈夫と、そういう認識に至ったことを示している。
すっかり舐められている米国だが、ここまでされないと、本当の意図に気付かない(一部の「中国専門家」は、未だに気付きたがらない)というのは、ずんぶんと間が抜けたものだと思う。(米国も劣化しているということか。)
今、米国が手こずっている「敵」は、いずれも米国が自分で育てたものだ。暴力的なイスラム原理主義の台頭は、アフガンゲリラを武力支援したのがその始まりだったし、中国の原理主義者たちも、米国がせっせと「プレゼント」して育て上げてきたものとくると。どうにも、救いようがない。
本書には、これから果たすべき課題についてもまとめられていて、ネタバレになるのでここでは逐一には触れないし、是非、本書をご参照いただきたいのだが。正直、参考にはなるものの、私にはピンと来なかった。
どうやら、米国は、アテにはならなそうだ。
日本の中国への対応は、やはり、自分で考えるしかない。
思うに、安保法案や憲法改正は、賢いやり方とは言えないだろう。実際に武力衝突をした上で勝利するという前提を抜きにしたその種の議論は、敵の意図に対して恐れおののいているチキンであることを、あえて知らせる意味しか持たないだろう。本来なら、裏で、実効的に意味がある別の何かを進めていて、その「目くらまし」として、表向きに騒いで見せているだけなら、意味があるかも知れないが。そんな「裏」が進んでいる様子は、不幸にして全く見られない。もし、そうではないのだとしたら、ひょっとして、かの国のように、国内の情報統制が、完全に機能しているということだろうか?(笑)
それに、そういった「秘策」を進めるのに、「税金を握りしめた人たち」の助けを借りずにやれる所が、我が国のいい所だったような気もするのだが。(そうでなければ中国と同じ。) 残念ながら、坂の上の雲はとうに飛び去り、峠を越えて下り坂もいい所の現在、活気も活力も失った民間には、望み薄のようにも感じる。全く。ひとつ、一休さんに頓知でも捻って欲しい心境になる。
目線を中国の自国内に移すと、閉塞感というか、行き詰まり感のようなものを、強く感じざるを得ない。中国が、自力で中長期的な成長を進められる実力を得たと、自分では判断していると本書にはあるのだが、現実にそうだとは全く思えない。今や中国は世界の工場で、あらゆるものを作れるのかもしれないが、その中に、「中国ならではのもの」を見かけることは全くないし、その域を脱する気配も、ほとんど感じられない。相変わらず、次は何をもらえるか、と周りをきょろきょろしているように見える。
そもそもの価値観からして、自国だけの歴史から得たローカルな価値観をただ積み上げるだけで、しかもその歴史自体を都合のいいように都度書き換えるとなれば、単なる日和見主義的な独裁国家史観から抜け出せない。実際、かの国の市井の人たちは、共産党書記長とはつまり「皇帝」のようなものだと今でも考えていると、どこかで聞いたし、天安門の虐殺なんかを見るにつけ、当局側もそのつもりでいるのだろう。西洋並みに民主主義や人権を尊重するのはムリだろうが、いつまでたっても「昔の名前で出ています」では、世界中が納得しないだろう。数や量、力以外の手段で、自らの地平を乗り越えなければ、未来は変わりようがない。将来的に覇権を得ること自体が目的なのではなく、どんな覇権を得たいのか、覇権を得た時にどうしたいかが、本質的な目的であるはずなのだ。
前回取り上げたイスラムもそうなのだが、人の思考と言うのは、熟成の時期を過ぎると、保守的、閉鎖的になるケースが、少なくないのだろう。そうなった後の、「聞く耳を持たない欲しがり屋さん」と付き合うのは、全くもって骨が折れる。
歴史的には、日本は、中国を師とした時代もあったと思うのだが。
昔、世話になった先生が、正気を失っている様を見るのは、全く、嫌なものだと思う。
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読書ログ 潜水服は蝶の夢を見る ― 2016/01/30 08:32
いつぞや読んだ脳の本 のリファレンスとして挙がっていた本だ。
脳幹が麻痺し、意識はあるのに体が全く動かせない状態に陥った著者が、わずかに動く片目の瞼でアルファベットを拾い、その認識世界を著わしたという、珍しい本である。
働き盛りが、ある日突然ブッ倒れて、しばらくの昏睡の後、気が付いたら、こうなっていた。一命を取りとめたのは奇跡だったが、彼が「目を覚ました」ことを、他の人間が気づけたのもまた、奇跡だったと、そんな状態。
自分がそうなったことを想像すると、これは、かなりキツい。しかし著者は、時に詩的に(本の表題のように)、時にアイロニカルに(フランス人なのだ)、自分の目に写る情景や、思い出話などを綴っている。
この状態で、こんな文章を著わせるのだから、彼が元は著名なファッション雑誌の編集長だったことを考えても、文才のある人だったのだろう。
本書についてのAmazonの書評を見ると、辛いけど元気が出る美しい話、のような評価が多いようだ。こんなに辛いのに明るく振舞うなんてすごい、とそんなニュアンスのようだが。私は、そうは思わなかった。
私はバイク乗りだから、何かあった際には、こんな状態に陥る可能性は小さくない。だから、全くの他人のような気がしなかったというのもあるのだが。何と言うか、あまり変わらないものだなと、そう感じた。
こうなったからって、認識世界が根本的に変わるわけではない。わずらわしい、これまでのように行かない、そういう「もどかしさ」は当然あるのだが。それは想定内だ。総じて簡単に言うと、彼我の差は「程度問題なのかな」といった感じだ。
彼は不自由で、私はそれに比べれば、遥かに自由だ。でも、完全に自由、というわけではない。彼に比べれば遥かに薄いとはいえ、潜水服は着ていて、ただ、潜水服の厚さが違うだけ、とそんな意味合いだ。(血圧が高いだけかも知れない。笑)
そして、彼が言いたかったのも、きっと、そんなことだったように思う。
この著者は、本書が初めに出版された2日後に、突然、亡くなったそうだ。彼が「目を覚まして」から、ほんの、1年後。
その、同じ「今から1年後」に、私が生きているのか、私は知らない。
皆もそうだろう。
ただ、私の場合、もしぶっ倒れていたとしても、もし可能なら、こんな風に、何か文章を考えているのだろうなあと、そんなことは思った。
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