読書ログ 責任という虚構 その2 ― 2016/01/10 07:49
先週 の続き。
本書の、残りの半分にも触れておく。
私にとって、予想外だった内容についてだ。
私は、「責任」そのものを糾弾し、退けることで満足していたのだが。
本書の著者は、その正体を暴く所まで行ってくれている。
責任の正体は、そのあまたの意味のうちの、最大のものである「罰」の一つ、「群れの掟」だと、一刀両断にされている。良く言えば「社会的規範」、それに反したものを社会的に罰し、見せしめにすることで、抑止力とする。そういう力学に則って、運営されている暴力だと。
「社会的規範」には理由がない。後付でくっつけた理屈はあるかも知れないが、大概は「掟」のように「昔からあるもの」、せいぜい繕っても「文化的なもの」だ。確とした基準ではないから、社会によって規範が異なる。例えば、死刑になる犯罪の重さは国によって異なるし、死刑がない国もある。だから、自分に課された「責任」に理屈を求めても、確かな説明は返って来ない。元となる「規範」自体が経験則や慣例であって、本来的に曖昧なものだからだ。
「責任」が、時に、いや、かなりの確率で、感情的な盛り上がりを伴って、非常に無体な措置に至ることがままある。「自己責任」を旗頭に弱い個人を糾弾する人間は、「体制側」の認識に酔っている。感情的に悪を糾弾する人は、正義感に駆られてのことかもしれないが、正義感に酔っているのと、大概は区別がつかない。
犯罪者のみでなく、その家族まで吊るし上げる(社会的に罰する)ことは、今でも普通に行われているが、そんなことは法律には書いてはいないし、「責任」のありかとしては、全く妥当ではない。親の因果は、子に報いない。そんな因果があるとすれば、親に報いるはずなのだ。なのに、そんな「制裁」が、いまだに是とされている。
何故か。
全部、「責任」が、「社会規範を犯したものの吊るし上げ」だと考えれば、納得が行く。
糾弾する方は「正しい」のが前提だから、反論するのは面倒だし、時に許されもしない。議論は進まないし、少なくとも、建設的な方向に進む事もないから、実際に、解決の役に立つことは少ない。また、目的が「見せしめ」だから、責任を負うのは「個人」でなければならず、実質の所は「誰でも良い」。だから、たとえ罪を犯したのがグループだとしても、それが丸ごと罰せられることは稀で、最も罪が重い(とされる)個人が責任を負う役を担う。部門長や社長なんかのクビで「みそぎ」とするのは、良くあるケースだ。
罪人の特定には、かようなプロセスが必ず入るから、必然的に、冤罪の可能性を、どうしてもはらむ。刑事事件の場合は、解決に当たるのが警察という官僚組織で、実質的な「真相究明」よりも、形式主義や前例主義、つまりは「終わったことにする」式の力学が働くから、尚更だ。我々が、「グループを罰する」手段を持つことができれば、きっと、一歩先に行けるのだろう。企業の不祥事のような「組織の瑕疵」の根絶に向かえるからだ。
本書に戻る。
本書は、その題名とは違って、責任を糾弾するために書かれた本ではない。
本書を著す動機は、「他者性」だとある。
他社とは何かを考えるということは、他者の目に写るもの、つまり自分について、外側から考えることである。自分と他者を違える線の形を描くのだ。
言い換えると、「責任」などと言い放って安穏としているのは思考停止だ、一体自分は、何を拠り所に喋っているのか、少しは考えようと、そんなことだろう。
我々は普段、数々の歴史的な変遷を経て、熟成だか進化だかをしたはずの現代は「正しい」と、何となく、思いこんで過ごしている。民主主義とか、立法国家、人権、「科学」といった辺りがが、安心材料になっているだろう。だがそれらは、古くは「神」だったり「ムラ」だったりしたのと同じ類の、人間が作り出した、架空の枠組みなのかもしれない。
一般化して書く。
人間が社会的な生き物である、つまり、社会を形作る性質を持つということは、社会を保つための「外部」、社会とその他を区別する「線」を必要とする。社会の内部で、それに従って生きることを是とする人間には、その「線」の是非を論じる自由はない。ただ、信じるのみである。もし、それでも足りなければ、その「線」を書き換える作業をただ淡々と続けるか、あるいは、何かしらの理屈を後付で作り上げて、安心しようとするのみだ。
人間が社会的ということは、とりもなおさず、自分の外に拠り所を必要とするということだ。その用途で、宗教とか国家とか、そんなものが便利に使われているのだろうし、「唯一の真実を求めて、論理的に突き詰めて考える」ことが、真面目に見えたりするのだろう。
でも、それでは、足りない気がする。
せめて、矛盾を認識することと、他人の矛盾を許すことは、必要だと思う。
個人的には、矛盾を楽しむ余裕、つまり、楽しめる矛盾を峻別できる実力くらいは、保持していたいと願っている。
「責任」については、「担当(の長)」くらいの意味で捉えておいた方がいいだろうと考える。
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責任という虚構
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