読書ログ 異邦人のまなざし ― 2016/05/29 06:48
この著者は、別の本を以前にも 取り上げた 。
普段はなかなか気付かない(あるいは気付くことを避けている)断面を、少し躊躇しながらも深く差し込み、ついにはスッパリ切って見せる。そのプロセスと言うかテンポが、読者の側にも考えさせる時間を与えつつ、しかし、著者の信念は譲らずに見せ続ける。そんな「間合い」が、独特な知的好奇心を刺激する筆致だった。
本書は、その著者による、回顧録だ。
著者が、如何にしてその独特な思考をするに至ったか、その道筋。
内容は、大きく2つに分かれる。
一つ目は、著者が若かりし頃に、何を考えて何に打ち込み、まあつまり、どこへ向かおうかと彷徨っていた、その頃に辿った道筋を書いている。
二つ目は、紆余曲折を経たにせよ、著者がこの道に入ってから、何を思い、何をしてきて、その総括だ。
一つ目の方は、正直、あまり面白くはなかった。
私も似たようなものだった、という意味で、平凡だったのだ。
著者は、バブル世代の滑り込みである私より、一回り上の世代だ。
学生時代は、今よりも、遥かに自由に振舞えた。
ただ、自由だったからこそ、悩みが深かった、ということもある。
「定石」と呼べるものが少なかったり、あっても頼りなかったりで、独力で進まねばならない場面が多かったのだ。
今では想像するのも難しいが、そういった状況下では、多くの場合で、パイオニアとドロップアウトの区別がつかない。
二つ目の方だが、見覚えがあった。
著者が体現する、「たった一人で考えることの意味」ってやつだ。
著者は、一人、フランスに住む日本人として、考え続けている。
フランス流の考え方をするフランス人(または西欧人)に囲まれながら。
他方、著者は、日本人としてのアイデンティティを、部分的にしろ保持している。日本語を使い、日本にも親類縁者が居り、日本のことを我が身のように気にしている。
その境遇は、安穏とは真逆の位置にある。
辛さから逃げられないことを、諦めて、納得した先にしか得られない境地でもあるのだ。
例えば、疲れたからと、日本に帰って、いち日本人として、同化してチャンチャン・・・で済ませるには、もういろいろと、遅すぎる。
我々は、いずれも、何らかの原理主義者だ。
皆、何事かに拘泥し、または「したくて」、意識、無意識の違いはあれ、そう思いこんで、そう行動している。
そこに気付き、そこから離れて立ってみないと、自分の姿を、外から眺めることはできない。
何も、自分を積極的に否定し続ける必要はない。
ただ、疑い続けるくらいは必要だ。
そうしないと、更新できない。
更新せずに、守るだけになった「自分」は、次第に、腐っていく。
ただ、そういった姿勢は、歳を取るほど辛くなる。
自分の文化に包まって、ぬくぬくとしていたい。
そういう願いが強くなる。
私は、もう少し、自分を楽しく叱咤激励できるものを探し続けたいと、また、ちょっとだけ思った。
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異邦人のまなざし―在パリ社会心理学者の遊学記
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