バイクのDVD ロード/デスティニー・オブ・TTライダー ― 2016/08/07 07:20
昔、マン島TTを初めとした公道レースで強かった Joey Dunlop 。
彼の弟である Robert もまたレーサーであり、その息子である William とMichael は、今でも公道レースを走っている。
その Dunlop Family を追ったドキュメンタリーだ。
GPを扱ったドキュメンタリーは、 FASTER
アナウンスによる解説を背景に、ダンロップファミリーを時系列に追う映像が続き、合間合間に親戚や知人(識者?)によるインタビュー形式のコメントが挟まる。そんな造りだ。
私は、ジョイの走りの本当を、全く知らなかった。
マン島TTで勝った回数が並み外れのTTマイスター。
その程度の知識しかなかったのだが。
全然違った。
ジョイは、公道レースをこよなく愛していて、ほとんど知られていないようなマイナーな週末レースにまで、マメに出続けていた。文字通り、
「年を取って、寿命で死ぬまで。」
レースは、彼の生活であり、人生だった。
1970年代。サーキットは、今では想像しにくいほど、未整備で危険な状況だった。だから、公道レースと言っても、危険度はさして変わらない。ちょっと余計に危ないだけだ。
その「ちょっとの差」のニュアンスは、たぶん、我々一般ライダーが、雨の日でもバイクに乗るのと、さして変わらなかったように思う。
彼らの社会的な立場は、私には理解できていない。もともと、レースへの理解が深いお国柄だ。社会の許容度と言うか、抱擁度というか。走り手の立ち位置も違ってくる。そういった文化を背景にした差は、この東洋の島国で腐っている私なぞの理解が及ぶ範囲ではない。
でも、何だろうか、彼らは皆、すごく静かで、真面目そうで、優しい。
反面、自分にはとても厳しい。
自分でマシンを整備する背中なんかが、そういうオーラを出している。
そんな辺りは、いつも見ている「バイク乗り」そのものに見える。
バイクに触れていない時、彼らは、さほど強烈な印象を与えない。ぼんやりとした、優しい目をしているのだが、その、遠くを見つめる視線の奥に、強固な芯のようなものが見えるようだ。
「死んでも続ける。」
彼らの目線は、静かに、そう語っている。
彼らは、いつも、死を見つめていた。
だから、死の臭いに敏感なのは、当たり前だ。
ボスニアが紛争で揺れていた当時、ジョイは、一人バンに救援物資を積み込んで、彼の地に向かった。きっと、そこに渦巻いていた死の臭いに、何かをせずには居れなかったのだろう。
走っていないと、生きた気がしなかった。
だから、レースをした。
それは、生きるのに、必要なもの。
息のようなもの。
ジョイの弟のロバートは、初めは少しオチャラケていたが、次第に、レースの本質に呑みこまれる。そして、ジョイと同じ、静かな目をするようになる。
でも、レースは甘くない。
その負荷は、彼らの肉体と精神の両方に、数々の傷を刻んで行く。
ジョイが最後にTTで勝ったのは2000年、48歳の時だったが、その時の映像で、彼は、実際の年齢よりも、ずいぶん老けて見える。
でも、別のクラスのレースで、ロバートと一緒にポディウムに乗った彼は本当に嬉しそうで、何だか、純真さのようなものを感じさせる。
彼は、ずっとピュアだった。
中身は、若いままだった。
きっと、レースがそうさせた。
ジョイはその後、レースでのアクシデントで、命を落とすことになるのだが。
その様子は、まるで「天寿を全うした」ように、私には見えた。
「いくら慎重で素晴らしい能力の持ち主でも、ワンミスで死ぬ。」
コメントはそう語る。
しかし、状況からすれば、あれは「ミス」ではなくて「無理」だ。
あんな雨では、私なら走らない。
当然、彼なら知っていたはずだ。
知っていて、走ったのだ。
(いつものことだ。)
ロバートは、ジョイよりも、(ある意味、ずっと)厳しい時間を生き抜いていたが、兄の死後も、レースを続けていた。彼にとって、「勝ちを目指す」のはやはり、息をするようなものだったのだろう。
その、同じ空気を吸っていたロバートの息子たちが、同じように、レースを走るようになるのは、だから、必然のようなものだ。
(それが、良いことなのかどうかは、別にして。)
息子達の目の前で、ロバートがクラッシュして死んだのは、ジョイが死んだのと同じような年齢で、見た目はやっぱり、ずいぶんと老け込んでいた。
その時の映像も映し出される。
ロバートのバイクは、飛び抜けて速かった。
レースは普通、同じカテゴリーにクラス分けされているから、最高速は、さほど変わらない。なのに、彼のバイクは、ライバル達を、ごぼう抜きしていく。
・・・・・おかしい、速すぎる。
映像を見つめる私がそう思うのは、きっと、暗すぎる演出(オバケが出る寸前のヒュードロドロ、来るぞ来るぞ・・・のような)の影響でもある。
彼のバイクは、高速走行時にエンジンが焼き付いて後輪がロック、転倒し放り出され、そのアクシデントに巻き込まれて制御を失った後続車に轢かれてしまう。
昔から、辛いクラッシュを、長い時間をかけて乗り越えて来た。
不屈の精神で、レースを続けて来た。
その「なれの果て」が、これだった。
レースの主催者は、死んでしまった父と一緒にエントリーしていた息子達が、走れる精神状態にないだろうと判断。一方的にエントリーを取り消したのだが、彼らは、出場を強行する。
そして、勝ってしまう。
この辺りをクライマックスに、全体をドラマチックに構成する。
このソフトは、そういう物語として作られている。
ずいぶんと「死」を強調した仕立てで、それをドラマの調味料に使おうという意図が見え見えだ。かつてのNHKプロXのような、「泣けるだろ?感動しろ!」風味が強すぎる。
アナウンスは、彼らを「死で結ばれたファミリー」と評しているが、外している。死は、人をつながない。断ち切るのみだ。
アナウンスはまた、「彼らはスリルを求めて走っている」とも言っているが。「スリル」と言ってしまうと、単なる怖さ、お化け屋敷やオカルト映画のような感じにもなりかねず、これも全く違ってしまう。
そもそも、この「ほら、死ぬんだぞ」風味は、今この瞬間に、その辺のバイク乗りが置かれている状況と、実は、さして変わらない。だから、こんなにドラマ仕立てにしなくとも、バイク乗りには十分伝わる。
私も、一バイク乗りとして、そこは理解できるような気がした。
彼らが求めるのは、死を前にした緊張感と、それ故の充実感だ。
彼らは、「勝つこと」に人一倍こだわってはいるが、目的はたぶん、走ること、そのものだった。でなければ、誰も見ていないような田舎レースにも出続けるようなことはしないだろうし、見るからに歳を取って辛くなってからも、ずっと続けるようなこともなかったろう。
走ることが、生きること、そのものだという感覚。
「自分はもはや、バイクに乗る動物である」という自覚。
彼らは、緊張感を呼吸している。
「バイクに乗る動物」は、これが足りないと、息苦しくなる。
ただ、普通はここまではしない。
親戚や知人らが、彼らがこっぴどいアクシデントに遭った際に「普通ならこの時点で止めている」といったコメントを発するが、的を得ている。程度問題とも言えるのだが、彼らは、図抜けている。
ただ、私には、かつてのジョイが、美しく整備された、たおやかなバイクで、確実に走ることに全神経を集中していたことと、今、若い甥たちが、最新型の猛烈な機体で果敢に挑み続けることが、同じ行為なのかどうか、最後まで、よく分からなかった。
画面は不必要なくらいに暗いし(編集者は、そんなにアイルランド(人)が嫌いなのか?という感じ)、編集もいい加減だ。例えば、お決まりの排気音を適当に重ねて済ませていて、バイクの車種と音が明らかに違っているような場面も散見される。そんな具合なので、あまり後味はよくないソフトだ。
もし、レースの本質について真摯に考えたいなら、いつぞや取り上げた こちら の方が、好適、というか「正直」のように思われた。
(「暗すぎる」演出は同じなのだが。今回のほどは、わざとらしくない。)
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