暴走族のエスノグラフィー―モードの叛乱と文化の呪縛 ― 2021/11/20 05:53
古い本である。
1984年の刊。昭和59年だ。
その前年の昭和58年、30代だった著者が、当時の暴走族に取材者として入り込み、内側からの観察により、その在り様を分析・考察した本だ。
エスノグラフィー ethnography は、辞書を引くと、民族誌(学)などとある。
ethnic + graphy という文脈で考えると、民族の記述/表現法、といった原意だろうか。
群れに密着し、主に観察をもって、その構造を明らかにし、意味を与える。手法としては、今西サル学辺りが始祖なのかと思う。
今西サル学とは、フィールドワーク、例えば、ニホンザルの群れを観察して、その構造が「ボス猿を頂点にしたピラミッド」であることや、家族や血縁の在り方、各々の個体が取るべきお動きやお作法、つまりは、ものの考え方や、文化(?)までを詳らかにして行く、そういった手法のことだ。
以前、その方面の書籍を取り上げている。
読書ログ 「サル化」する人間社会 ― 2014/09/13 05:45
今西サル学の以降、同じような手法は多方面に応用されていて、サル以外の動物、下は小さな虫から、上は人間にまで、応用例と思しきものは多数見られる。
特定の人間の群れに対して、同様の手法を応用した例も多くて、一時期はトレンド化していたようにも思う。(実際、「ボス猿型」の群れの構造は、人間にもよく見られる。)それが文化人類学になり、データ解析を絡めて社会心理学に合流するなど、いろいろ派生・発展した、と捉えることもできるだろう。
本書は、その一連の流れの走りの世代かと思うのだが、本書では、接触と観察により、暴走族の若者のモノの考え方・感じ方を分析している。
また、著者自身のデータ以外にも、当時の報道や、他の著書など、広範囲に情報源を広げて、それらと彼らの相互作用にも、考察は及んでいる。
著者いわく、これは、私のカルチャーショックの記録であると。
暴走族とはいわば、とある文化様式に従って振る舞う若者の集団だが、その内部者である彼らは、ただ普通に振る舞っているだけだ。しかし、事情をあずかり知らぬ他者からすれば、違和感だらけだ。まず言葉が通じない、何を言っているかわからないし、どういう理屈で動いているのかもわからない。暴走って何?、何がしたくてそうなってるの?元はどうだったの?次はどうするの?…
なので、まず知り合いになり、友達になり、あれこれと話を聞いて、一緒に行動して、一つ一つ掘り返して行く。
例えば、「暴走サイコー」というその「サイコー」は、文化人類学の研究であるコレコレの文脈で理解できるのではないか、などとやっている。
また、当時は暴走族のピークでもあったが(何と全国で4万人も居たそうだ、昨今の少子化を考えると信じられないが…)、住民には嫌がられ、警察には目を付けられ、報道は煽りと蔑視をない交ぜに繰り返されていたし、ヒーローとして持ち上げたり、妙に同情的な理解者目線のドキュメンタリーや書籍なども多数出ていた。それらの外部情報が、彼らに与えた影響と変化、つまり意味についても考察している。
最後に、一連の考察結果を、より根源的な、原理のようなものに一般化・昇華して終わっている。
エスノグラフィーとしては力作で、Amazonの書評などを見ると、評価もされているようだ。著者は、この世界では有名な方らしい。
ただ、暴走族の文化の詳細を、ここで繰り返すことはしない。
だって、個人的には、もうウンザリするほど知ってることなのだ。(笑)
いや、オレは今でもハンパしてねえぜ、ということではなくて。
若い頃、同世代として経験してますよ、という意味です。一応。(苦笑)
この本の取材の当時の暴走族と、私は同世代だ。私が通っていた中学は荒れていて、いろんなタイプの不良が居た。当然、暴走族を「アニキ」と慕う連中も居て、たまにバイクを借りて(盗んで?)来ては校庭を走り回ったりしていた。その「アニキ」達は、夜な夜なうちの近所を、けたたましい空ぶかしで走り回っていたし、実は「ご近所」程度の知り合いだったりもした。
カネとクスリの米国バイカーギャングとは違って、日本の暴走族は、確かに「暴力団の予備軍」的な意味合いも少しはあったのだが、一人一人と話をすると、ただの無邪気なアンちゃんだ。18になればクルマに「卒業」するし、ゆくゆくは普通に就職して、ただの大人になる。暴走は、一時期の「やんちゃ」だ。彼らもこだわりはなかったし、当時の大人もそう思っていて、大概は、大した事態にはならなかった。誰もがそう高を括っていたし、実際、その通りになった。暴力団予備校的な役割も確かにあったのだが、そこまで至るのはごく少数だけだったし、その動きが表面化するのは、もう少し後の話だ。
要するに、暴走には、意味などなかったのだ。
暴走族は、私のすぐ身近にいたが、当時、バイクには欠片も興味がなかった私には、ただ辟易する対象でしかなかった。
それは、生粋のバイク乗りに変貌した、今でも同じだ。
戻って来た旧車會のオッサンたちも同じだろう。彼らがなぜ戻って来たのか、ただのノスタルジーか、ミッド何とかクライシスの結果なのか、それとも、かつて彼らが浸った暴走族文化のエッセンスが、今でも彼らのどこかに残っていて、その価値を再発見した、ということなのか、私にはわからないし、興味もない。
我々は、傍から見ると同じバイク乗りだろうが、全く別の世界に居る。どちらの世界に属するかは、お互いに、もう一見して分かってしまう。だから、パーキングなど出先でかち会っても、無視し合うだけで、話もしない。
ただ、仕事などで、そうとは知らずに話していることはある。実際に、呑み会などで、ひょんなことで発覚することもある。で、ああ、元・族ですか、となって、何となく、彼の日々の言動が、納得できたりする。
同じようなことは、たくさんある。
地域や、世代、会社など、あらゆる群れで、それらに特定の文化様式を感じさせることは、結構ある。
例えば、スポーツの大会などを見ていて、参加者のふるまいや掛け声などが、独特だなあと感じさせることはままある。それが、ルールとして明文化されていることもあるし、そうでないこともある。その構造や在り様は、実際に見て、触れて、入って、真似て、馴染んでみないと、ふーん、そういうわけかー、と腑に落ちるには至らない。
「企業文化」や、「お国柄」も、ある程度は似たようなものだろう。
つまり、我々は、そういう大小のローカルルール、ハビットなりカルチャーなりに囲まれて、かつ従って、生きている。
人間の群れというのは、そう強いるものなのだ。
だが、実際の所、それらに何か意味があるわけではない。
暴走に、意味がなかったのと同じだ。理屈なんかない。
我々のこだわりというは、概して、そんなもんである。
我々のアイデンティティ、個性と考えているのは、いわば、属する暴走族(とその遍歴)が違うだけ。
その程度のことだ。
そういう目線で本書を読んで、私は妙に納得した。
暴走族の生態は知っていることばかりで、大して面白くはなかった。
ただ、終章の総括は、それなりに面白かった。
私と同じ世代は、終章だけ読めばOKな人も多いだろう。
得られた知見の重さに比べて、調査と考察の手間がかかり過ぎている印象はある。研究というのは概して、そういうものだとは思うのだが。
ただ、その知見が今、何かしら役に立っているわけでもないし、我々の群れのありようを改善してくれた実感もない。ふーん、そうかもなー。それだけなのだ。
反面、同じ手法が、眼前の問題の解決なり、いなし方なりに、応用できそうな可能性も感じてしまう。
昨今、実際の世相の方は、互いをけん制し合う、悪い面が目立って来ていると感じられる。そちらに、何とか使えないか…
そんな感じで、徒労感と共に、妙に思考が尾を引く、不思議な読後感でもあった。
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