◆ (新書) MotoGP 最速ライダーの肖像 ― 2024/02/05 21:25
2021年4月の刊なので、2020年シーズンまでの情報だ。たったの4年なのだが、動きの速い業界だけに、既に古さを感じさせる。引退したベテランも散見される。
一応、素人さんにも配慮はしてあるのだが、基本、当時からMotoGPを見ていて、ある程度の予備知識がないとわからなそうな内容だ。ああ、あの人ね、確かにそうだった・・・と、追認型の読後感が続く。
ベテランが読む分には真新しいことはあまりないが、シロートさんには分からないかも?という、微妙な立ち位置の本だ。資料としては有用だが、売り物としては賞味期限は短かい本かも知れない。
逆に、好きな人が買い置いて、じっくり(後で)読んでもいい本なので、好事家におススメしたい。
Amazonはこちら
MotoGP 最速ライダーの肖像 (集英社新書) 新書 – 2021/4/16
一応、素人さんにも配慮はしてあるのだが、基本、当時からMotoGPを見ていて、ある程度の予備知識がないとわからなそうな内容だ。ああ、あの人ね、確かにそうだった・・・と、追認型の読後感が続く。
ベテランが読む分には真新しいことはあまりないが、シロートさんには分からないかも?という、微妙な立ち位置の本だ。資料としては有用だが、売り物としては賞味期限は短かい本かも知れない。
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◆ (単行本) 突っ込みハッチの七転び八起き ― 2023/11/03 12:11
※ 本稿は、オートバイロードレース界の知識を前提にしています。
本書は、81~90年にレーシングライダーとして活躍し、今も同分野のジャーナリストとしてご活躍中のハッチこと八代俊二氏が、ご自身の現役時代を記した本だ。
鹿児島の田舎から出てきて、仕事をしながらレースを始め、モリワキに、次にHRCに関わり、引退するまでの10年間が書かれている。
曰く、子供のころから乗り物が好きだったので、それで食うべく四輪レースの頂点を目指し、父親の強硬な反対を押し切って都会へ出た。
初めに二輪のレースから入ったのは、初期費用の低さと、もともとレース界にコネなどなかった著者が参入するには、四輪より二輪の方が敷居が低かったことがあったようだ。当時は、二輪出身の著名な四輪レーサーも多かったので、妥当なキャリアパスだったようだ。
その二輪レース界だが、81~90年というと、昭和の終期~平成の時期に当たる(平成元年は89年)。二輪業界は、バブル景気と、空前のバイクブームに沸いていた。
当時の業界の雰囲気は、上野にあったバイク街が象徴していたように思う。そぞろ歩きの高校生が、コーリンの店員のハードなセールストークに捕まって、瞬殺で壊れる中古車を無理やり買わされていた。バイクは、乗り物業界の底辺で、それを扱う企業の格も、似たようなものだった。そういう怪しげな企業が、当たり前のように跳梁跋扈していた。
事情はレース界も似たようなもので、労働環境、経営者が人を使うマナーは、当時の時代背景を考え合わせても、かなりの度合いで未整理のままだった。ややもすると、人のことなど何とも思っていない不条理やゴリ押しが、平然とまかり通っていた。
欲望が渦巻き、落とし穴だらけの二輪レース業界での、ハッチのマニューバーが始まる。
しかし、彼のキャリアのマニューバーは、サーキットでのライディング程は、うまく行かなかったようだ。
まず、モリワキだ。
モリワキのレーサーで走るに際し、契約書の類は一切なかったとのこと。走ることや、勝つことで、モリワキからフィーが支払われることはなかった。
レースで勝った際に、運営側から支払われる賞金の受け取りだけは、辛うじて許してもらっていた、それだけだったと。
ハッチは、レースとは別に、モリワキの社員として、市販マフラーの製造(パイプを熱し曲げて溶接して…といった一連の作業)に、朝8時から携わることで給料をもらい、もっぱら、それで食っていた。
この雇用(?)形態だが、当時は「こんなもん」だったようで、かのシュワンツも、「84年にUSヨシムラと契約した時、貰えるのは経費と賞金だけだった」と言っている。(ソースは こちら 。)
だからといって、当時のライダーの苦労は、これで報われていた、とは到底言えない。
ことライダーの勧誘に関して、モリワキは、TT-F1やF3のバイクをライダーに見せて「乗せてあげるよ?」と誘うだけで、他は何もなし。ハッチの時も同じだった。
まあそれでも、マシンから自力で用意せねばならないプライベーターよりも金銭的にはマシだったし、チーム員を揃えてサーキットを転戦するのは結構なマネージメントが必要なので、その手間も省ける分、まだ恵まれていた、と言えなくもない。
しかし、マシンを自分で選べないこと、セッティングを含めた開発面の要求が容れられるかわからないこと、どこのどんなレースにエントリーするかの選択権はなく、会社から強制されることなど、個人の実力養成や、成績の蓄積の面では、ネガも少なくなかった。
レーシングバイクは、あくまでモリワキの意図に沿って作られるもので、ライダーの意向が反映されるとは限らない。同様に、ライダーのポイントランキングには関係ないレース、例えば、突然の海外シリーズへのスポット遠征などを、事前予告なしに、いきなり強いられることも幾度かあった。
モリワキがレーサーを作る目的は、サーキットでの露出度だ。とにかくサーキットで目立てば、それが自社製品の優位性のアピールになり、製品の売り上げに直結する。
この当時(今も、かも知れないが)、バイクのマフラーを換えるのは「普通」だった。
当時のモリワキのマフラーは(確か「フォーサイト」のような製品名だった気がするが、うろ覚え)、サイレンサーに放熱板のようなものが付いている妙な形状で、ぱっと見で見分けがついたのだが。これも、巷で実によく見かけた。
バイク乗りは、何故マフラーを換えるのか。メーカーよりパーツ業者の技術が信頼されていたのか、 排気音への強いこだわり の故なのかは分からないのだが、当時は、VT250Fの辺りのマシンを買って、ヨシムラやモリワキのマフラーに換えるのが当たり前で、かつカッチョ良かったのだ。
同種のパーツのコンストラクターは、ヨシムラやモリワキ、KERKERなど、個人の名前を関したものが多かった。いわば「社長の技術」がアピールポイントになっているわけで、それでしのぎを削る業界は、まるで野武士の混乱戦、「一匹狼の共食い」の様相とも言える、混沌さを呈していた。
そんな世界で稼ぐには、商才は無論のこと、相当の商魂が要る。
そして、モリワキの社長は、実に商魂が逞しかった。
そんなモリワキの社長にとって、ハッチは、説服しやすい相手だったようだ。
義理人情派のお人好しで、朴訥で真面目、内向的な努力家であるハッチは、海千山千の森脇社長にとって、極めて説き伏せ易い相手だった。
まずこっちに返答するのが筋やないのか!
さっきハイって言ったやないか!
今までガンバってきたのに、こんなところで止めてまうんか!
ここまで誰のおかげて走れた思うとるんや!
・・・と、面と向かって恫喝はしないまでも、そういった雰囲気を感じさせて、相手をコントロールする。
そんなことを、意識・無意識を関わらずできるし、やるタイプの人だったようだ。
ちなみに、このハッチのようなタイプの人は、市井の会社など、どの組織でも一定数お見受けするものだ。内向的で問題解決が上手く、小器用で応用が利くのだが、無口で文句を言うことがない。周りからすると、無理難題を押し付けておけば、自動的に何とかしてくれるので、組織の末端(≒最終局面)の現場で便利屋として使うには、実に有用な人材なのだ。しかし、扱いとしては「消耗品」で、当人は疲弊して消耗して、ツブされてしまう場合がほとんどだ。
そして、当のハッチも、似たような帰結を辿ったようだ。
当時のモリワキは、大人の事情で(?)ホンダのマシンを使っていた。しかしそれは、旧い空冷エンジンで、台頭著しいスズキの油冷に勝てなかった。
そんなモリワキにとって、ハッチは、優れたライディングセンスと、与しやすい人格の両面で、劣ったバイクを何とか上位に食い込ませるための便利な駒として、光っていた。
一度乗せて取り込んでしまえば、あとは上述の恫喝まがいの交渉(?)でどうにでもできる。
そんな具合で、その後もハッチは貧乏くじを引き続け、数々のチャンスをフイにする。
(その中には、驚くようなオファーもあったようだが、詳細は本書を参照してほしい。)
そういった状況だが、HRCへ昇格することで、ある程度の改善が期待された。バイクのレース界最高峰のWGPへの道が開けるという意味でも、それは、ハッチの意図に沿ったものになる。
・・・はずだった。
本書に書かれる当時のHRCの内情は、これまた恐るべきものだ。
開発の指標は「ない」。
ほぼ、エライさんのTop Downによる。
それを、秀才型のエンジニアが支える構造。
その風景は、勝手気ままな宗一郎と、スパナでぶん殴られても心酔して付いて行く型のエンジニアの組み合わせという意味で、ホンダの原風景を彷彿とさせる。
いい例が、4気筒NSR500の、チャンバーの取り回しだ。
NSRのチャンバーは、当初、4本が並置されていた。それは、エライさんの指示だったと、当時のエンジニアが吐露していたと。
そのエライさんは、バイクの排気管というのは、一般的な4stパラ4のエキパイように、4本が並んでいるのが当然、と信じ込んでいたようだ。だから、当のNSRも、そう作るように指示した。その出来には「よっしゃ、バイクはこうでなくちゃ」とご満悦だった、とのことだ。(これも、宗一郎が勝手な技術的な思い込みで指示を発していた風景に似て見える。)
こういうやり方をされると、普通、エンジニアは腐る。
だが、この当時、既にただの大企業と化していたホンダでは、不条理に反応しないことが、当然のマナーと化していたようだ。
(あのNRだって、始まりはこれに似た、上司の勝手な発案だった。「ホンダの技術者の夢」のような喧伝文言は、だから、会社による後付けの戯言であることは明らかなのだ。会社の失敗も美化処理して商材にしてしまう。その道具にされたエンジニアは、怒っても良さそうに想うのだが。どうも、諦めた秀才というのは、寡黙になるらしい。)
4気筒NSRは、そのチャンバー配置のおかげで行き場をなくしたリアサスを、空きスペースに、妙な機構を介してマウントしていた。それは、所望の特性には足りなかったから、タイヤのロードホールディングの不足を招き、現場のライダーやメカニックを苦しめた。しかし、その改善は、根本的な構造の大変更を伴うため、放置された。少なくともそのシーズンは、ライダーや現場の技術者に丸投げされて済まされた。
HRCは昔から、レーシングバイクというのは会社都合で造るもので、それに文句を言わず合わせて乗って最速で走らせるのがライダーの役割、という考え方だ。だから基本、ライダーの要求は聞かない。本書にも、かのスペンサーも含めて、ライダーの要求をヒアリングしたことは一度もない、というエンジニア氏の驚くべき証言が載っている。
HRCのこの考え方は、基本的に今でも変わっていない。ロッシや、先ごろのマルクなど、幾多の超有能なライダーたちが、HRCに反発しつつ離脱しているが、その一因はこれだろう。
以下は極めて個人的な意見なのだが、この「プロダクトアウトの押しつけ思考」は、レースに限らず市販車でも、ホンダという会社の体質とも言えるものだと思っている。
最近のホンダは、よく「乗り易さ」で市販車を訴求しているが、それは裏返せば、「これを乗り易いと思え」という企業からの要求だ。
会社は、ユーザーがそれに与するように予め念入りにマーケティング(≒ユーザ側の認識の制御)を施しており、その相乗効果で、販売数量の最大化を図っている。
「ホンダは技術の会社だ、その製品はいつも先進的で、常に正しい」というイメージを浸透させておく。そこへ「乗り易いバイク」をリリースすれば、「ああこれが乗り易い、いいバイクなんだ」と、ユーザーは単純に思い込んでくれる。
一般のユーザーは、新製品の購入に際し、実際に試乗して自ら評価するようなことはしない。評価としては、ネットの提灯記事にうなずくのが精々なのだ。バイクの購買層は、経験が浅い若い人(と経験を忘れ去っているリターン組)がほとんどなので、この程度の戦略で簡単に丸め込める。
で、会社の方は、 設計ではなく生産に関する技術開発に特化して、利益の最大化に安心して邁進できる 、とそういうことになっている。
市井の一般ユーザーでも、バイクライフを充実させるには、道具としてのバイクの評価(本当に技術的に進んでいるのか、とか)や、「バイクは本来こうあってほしい」といったフィロソフィーなり、譲れないポイントなりが大切なはずなのだが。実際には、そんなものが関与できる余地を、ホンダというメーカーは特に、提供しない。
・・・といったようなことは、優良なホンダユーザーであらせられる多くの善良な公道ライダーの皆様には余計なお世話だと思うので。話を、ハッチのHRCに戻す。
さすがにHRCともなると、契約書は一応あったらしいが、契約金の交渉は、交渉と言えるものではなく、ほぼHRCから一方的に提示されるだけだったようだ。
その交渉の時のやり取りがまたふるっていて、HRCのエライさんの話っぷりは、最小限をぶっきらぼうに言い放つだけ。
「いくら欲しいの?」
「これしか出せんよ!」
余談だが、このエピソードは、私がかつて勤めていた、某・大企業のエライさんの言動を思い出させた。
ヒラの私が詰めている末端の職場に、重役が電話をかけて来る。電話の主は、出るや否や「田中!」と一言ガナるだけ。田中というのは、部長の名前だ。要するにそれは、部長を出せ、代われ、という要求なのだ。
この電話を初めて受けた時、私は、新手のいたずら電話かと勘繰った。それ位、常識を逸した言動だったのだが、この後も、同じ様な事例は続いた。
要は、大企業でエラくなると、忖度してもらうのが当たり前になって、人格や言動が歪んでくる。そうやって、世間的には非常識な、いびつな生き物になって行く。そういうものなのだ。
再度、話を戻して。
ハッチが居た頃のHRCでは、契約交渉だけでなく、チームの運営の全般が、そんな具合だった。
2st 500ccに進出したシーズン、まずは国内で年間チャンプを取って地歩を固めたい、という当人の希望は、完無視された。
バイクは頻繁に入れ替わった。その動機は、極めて会社都合の色彩が強いもので、最初にあてがった旧型には乗れてるみたいだから、次は新型を放っておこう、どうせ余ってるし・・・といった具合で、意図も意味も特段なかった。
WGPへのスポット参戦を強いられた。無断欠勤が多いスペンサー用のワークスマシンが余っていたし、その隣で、ライバルのヤマハが、平をWGPへスポット参戦させていて、HRCも対抗して、日本人をWGPで走らせてみたい、そういう意向があったようだ。
そういった諸々の状況下、会社目線では、ハッチはやはり、便利屋的に適任だった。
「というわけで、来週ヨーロッパに飛んで」てな感じで、突然のWGPデビューを強いられる。
しかし、上述のように、当時のNSR500は開発が途に就いたばかりで、まだロクなものではなかった。現場では、延々とセッティングを繰り返してもタイムは上がらず、結局、本戦でライダーが男気の勝負に出て、リスクテイクが裏目って、転倒で負傷が絶えない、そういう環境でしかなかった。
国内GPでもそうなのに、さらに世界GPだ。不確定要素は、さらに増える。サーキットは初めてで様子が分からないし、当時の西欧のサーキットは路面が悪く、ランオフエリアも未整備だったりと、ロクなものではなかった。
バイクも、スペンサーが「イチ抜けた」で余っているのを当てがわれて、しかし、セッティング変更が許されるのかも分からず、そもそも、スケジュール的にその時間がないしで、結局は持ち込みの自分のバイクに乗ろうとすると、メーカーの意図との齟齬を感じ取ったチームの雰囲気が悪くなって・・・と悪循環ばかりが回っていた。
全ては、会社の行き当たりばったりの対応が原因だ。
そのシーズン、ハッチにしてみれば、国内とWGPの二股でポイントが分散して、ランキングは低迷。怪我の繰り返しで、身体的はコンディションも悪化した。
会社に振り回されて、結果が出せない状況を改善すべく、自発的に各方面に取り組んだりで、その後は多少の上向きはあったようだが。そのペースは緩く、必要なレベルに達するには、相当な時間を要した。
この時期、NSR500の開発が低迷していたのも効いていた。ガードナーの根性が潰えて以降は、ヤマハやスズキが台頭し、この後、WGPは、レイニー・シュワンツの時代に入って行く。ホンダが再び王者に返り咲くのは、ビッグバンエンジンの開発を経た後、ドゥーハンの時代まで待たねばならない。
ハッチが居たこの時代は、NSRの「低迷の始まり」の時期だった。その開発がトンネルを抜けるのは、まだまだ遥か先のことで、当時のハッチの立ち位置からは、トンネルの出口は欠片も見えない。
結果、やはりハッチは、便利屋的なポジションから脱せなかった。
当人もそれを感じていて、自分が何のために、誰のために走っているのか、走る意義を見失ってしまう。
当初の目的だった四輪レーサーへの転向の道は、とうに閉ざされていた(既に四輪レーサーも専門職の時代に入っていた)。
二輪のWGPにエントリーはできたものの、年齢や怪我といった身体的なコンディションを考えても、その上位グループに届くかは、かなり難しそうに思われた。
必然的に、潮時を意識せざるを得なくなる。
今のハッチは、レースの解説など、ジャーナリスト分野で活躍されている。
ケーブルテレビのSBK中継の解説は、私もお馴染み、かつお気に入りだ。
彼の解説は独特で、特定のメーカーに与する提灯持ち的な色彩がほとんどなく、レース界の最前線での経験を踏まえつつ、歯に衣着せぬ正直な言葉で、唸らせたり笑わせたりしてくれる。要点だけを、少ない言葉でズバリと伝え、後は視聴者の解釈に任せる話し方は、彼の人格の故なのだろう。これは、一瞬を争う忙しいレースの解説には実にふさわしく、かえって分かり易かったりする。説明と称して、自分の意見や知識をひけらかし、ウソも交えて捲し立てる宮城光(モリワキ時代のハッチの同期、今はホンダの提灯持ちに収まっている)とは対照的だ。
本書で、彼の苦しい現役時代を、今さらながらねぎらいつつ。
末永くのご活躍を、願いたいと思う。
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レーサーズ ノンフィクション 第2巻 突っ込みハッチの七転び八起き RACERS - レーサーズ - 書籍 (レーサーズノンフィクション 2) ムック – 2022/11/7
本書は、81~90年にレーシングライダーとして活躍し、今も同分野のジャーナリストとしてご活躍中のハッチこと八代俊二氏が、ご自身の現役時代を記した本だ。
鹿児島の田舎から出てきて、仕事をしながらレースを始め、モリワキに、次にHRCに関わり、引退するまでの10年間が書かれている。
曰く、子供のころから乗り物が好きだったので、それで食うべく四輪レースの頂点を目指し、父親の強硬な反対を押し切って都会へ出た。
初めに二輪のレースから入ったのは、初期費用の低さと、もともとレース界にコネなどなかった著者が参入するには、四輪より二輪の方が敷居が低かったことがあったようだ。当時は、二輪出身の著名な四輪レーサーも多かったので、妥当なキャリアパスだったようだ。
その二輪レース界だが、81~90年というと、昭和の終期~平成の時期に当たる(平成元年は89年)。二輪業界は、バブル景気と、空前のバイクブームに沸いていた。
当時の業界の雰囲気は、上野にあったバイク街が象徴していたように思う。そぞろ歩きの高校生が、コーリンの店員のハードなセールストークに捕まって、瞬殺で壊れる中古車を無理やり買わされていた。バイクは、乗り物業界の底辺で、それを扱う企業の格も、似たようなものだった。そういう怪しげな企業が、当たり前のように跳梁跋扈していた。
事情はレース界も似たようなもので、労働環境、経営者が人を使うマナーは、当時の時代背景を考え合わせても、かなりの度合いで未整理のままだった。ややもすると、人のことなど何とも思っていない不条理やゴリ押しが、平然とまかり通っていた。
欲望が渦巻き、落とし穴だらけの二輪レース業界での、ハッチのマニューバーが始まる。
しかし、彼のキャリアのマニューバーは、サーキットでのライディング程は、うまく行かなかったようだ。
まず、モリワキだ。
モリワキのレーサーで走るに際し、契約書の類は一切なかったとのこと。走ることや、勝つことで、モリワキからフィーが支払われることはなかった。
レースで勝った際に、運営側から支払われる賞金の受け取りだけは、辛うじて許してもらっていた、それだけだったと。
ハッチは、レースとは別に、モリワキの社員として、市販マフラーの製造(パイプを熱し曲げて溶接して…といった一連の作業)に、朝8時から携わることで給料をもらい、もっぱら、それで食っていた。
この雇用(?)形態だが、当時は「こんなもん」だったようで、かのシュワンツも、「84年にUSヨシムラと契約した時、貰えるのは経費と賞金だけだった」と言っている。(ソースは こちら 。)
だからといって、当時のライダーの苦労は、これで報われていた、とは到底言えない。
ことライダーの勧誘に関して、モリワキは、TT-F1やF3のバイクをライダーに見せて「乗せてあげるよ?」と誘うだけで、他は何もなし。ハッチの時も同じだった。
まあそれでも、マシンから自力で用意せねばならないプライベーターよりも金銭的にはマシだったし、チーム員を揃えてサーキットを転戦するのは結構なマネージメントが必要なので、その手間も省ける分、まだ恵まれていた、と言えなくもない。
しかし、マシンを自分で選べないこと、セッティングを含めた開発面の要求が容れられるかわからないこと、どこのどんなレースにエントリーするかの選択権はなく、会社から強制されることなど、個人の実力養成や、成績の蓄積の面では、ネガも少なくなかった。
レーシングバイクは、あくまでモリワキの意図に沿って作られるもので、ライダーの意向が反映されるとは限らない。同様に、ライダーのポイントランキングには関係ないレース、例えば、突然の海外シリーズへのスポット遠征などを、事前予告なしに、いきなり強いられることも幾度かあった。
モリワキがレーサーを作る目的は、サーキットでの露出度だ。とにかくサーキットで目立てば、それが自社製品の優位性のアピールになり、製品の売り上げに直結する。
この当時(今も、かも知れないが)、バイクのマフラーを換えるのは「普通」だった。
当時のモリワキのマフラーは(確か「フォーサイト」のような製品名だった気がするが、うろ覚え)、サイレンサーに放熱板のようなものが付いている妙な形状で、ぱっと見で見分けがついたのだが。これも、巷で実によく見かけた。
バイク乗りは、何故マフラーを換えるのか。メーカーよりパーツ業者の技術が信頼されていたのか、 排気音への強いこだわり の故なのかは分からないのだが、当時は、VT250Fの辺りのマシンを買って、ヨシムラやモリワキのマフラーに換えるのが当たり前で、かつカッチョ良かったのだ。
同種のパーツのコンストラクターは、ヨシムラやモリワキ、KERKERなど、個人の名前を関したものが多かった。いわば「社長の技術」がアピールポイントになっているわけで、それでしのぎを削る業界は、まるで野武士の混乱戦、「一匹狼の共食い」の様相とも言える、混沌さを呈していた。
そんな世界で稼ぐには、商才は無論のこと、相当の商魂が要る。
そして、モリワキの社長は、実に商魂が逞しかった。
そんなモリワキの社長にとって、ハッチは、説服しやすい相手だったようだ。
義理人情派のお人好しで、朴訥で真面目、内向的な努力家であるハッチは、海千山千の森脇社長にとって、極めて説き伏せ易い相手だった。
まずこっちに返答するのが筋やないのか!
さっきハイって言ったやないか!
今までガンバってきたのに、こんなところで止めてまうんか!
ここまで誰のおかげて走れた思うとるんや!
・・・と、面と向かって恫喝はしないまでも、そういった雰囲気を感じさせて、相手をコントロールする。
そんなことを、意識・無意識を関わらずできるし、やるタイプの人だったようだ。
ちなみに、このハッチのようなタイプの人は、市井の会社など、どの組織でも一定数お見受けするものだ。内向的で問題解決が上手く、小器用で応用が利くのだが、無口で文句を言うことがない。周りからすると、無理難題を押し付けておけば、自動的に何とかしてくれるので、組織の末端(≒最終局面)の現場で便利屋として使うには、実に有用な人材なのだ。しかし、扱いとしては「消耗品」で、当人は疲弊して消耗して、ツブされてしまう場合がほとんどだ。
そして、当のハッチも、似たような帰結を辿ったようだ。
当時のモリワキは、大人の事情で(?)ホンダのマシンを使っていた。しかしそれは、旧い空冷エンジンで、台頭著しいスズキの油冷に勝てなかった。
そんなモリワキにとって、ハッチは、優れたライディングセンスと、与しやすい人格の両面で、劣ったバイクを何とか上位に食い込ませるための便利な駒として、光っていた。
一度乗せて取り込んでしまえば、あとは上述の恫喝まがいの交渉(?)でどうにでもできる。
そんな具合で、その後もハッチは貧乏くじを引き続け、数々のチャンスをフイにする。
(その中には、驚くようなオファーもあったようだが、詳細は本書を参照してほしい。)
そういった状況だが、HRCへ昇格することで、ある程度の改善が期待された。バイクのレース界最高峰のWGPへの道が開けるという意味でも、それは、ハッチの意図に沿ったものになる。
・・・はずだった。
本書に書かれる当時のHRCの内情は、これまた恐るべきものだ。
開発の指標は「ない」。
ほぼ、エライさんのTop Downによる。
それを、秀才型のエンジニアが支える構造。
その風景は、勝手気ままな宗一郎と、スパナでぶん殴られても心酔して付いて行く型のエンジニアの組み合わせという意味で、ホンダの原風景を彷彿とさせる。
いい例が、4気筒NSR500の、チャンバーの取り回しだ。
NSRのチャンバーは、当初、4本が並置されていた。それは、エライさんの指示だったと、当時のエンジニアが吐露していたと。
そのエライさんは、バイクの排気管というのは、一般的な4stパラ4のエキパイように、4本が並んでいるのが当然、と信じ込んでいたようだ。だから、当のNSRも、そう作るように指示した。その出来には「よっしゃ、バイクはこうでなくちゃ」とご満悦だった、とのことだ。(これも、宗一郎が勝手な技術的な思い込みで指示を発していた風景に似て見える。)
こういうやり方をされると、普通、エンジニアは腐る。
だが、この当時、既にただの大企業と化していたホンダでは、不条理に反応しないことが、当然のマナーと化していたようだ。
(あのNRだって、始まりはこれに似た、上司の勝手な発案だった。「ホンダの技術者の夢」のような喧伝文言は、だから、会社による後付けの戯言であることは明らかなのだ。会社の失敗も美化処理して商材にしてしまう。その道具にされたエンジニアは、怒っても良さそうに想うのだが。どうも、諦めた秀才というのは、寡黙になるらしい。)
4気筒NSRは、そのチャンバー配置のおかげで行き場をなくしたリアサスを、空きスペースに、妙な機構を介してマウントしていた。それは、所望の特性には足りなかったから、タイヤのロードホールディングの不足を招き、現場のライダーやメカニックを苦しめた。しかし、その改善は、根本的な構造の大変更を伴うため、放置された。少なくともそのシーズンは、ライダーや現場の技術者に丸投げされて済まされた。
HRCは昔から、レーシングバイクというのは会社都合で造るもので、それに文句を言わず合わせて乗って最速で走らせるのがライダーの役割、という考え方だ。だから基本、ライダーの要求は聞かない。本書にも、かのスペンサーも含めて、ライダーの要求をヒアリングしたことは一度もない、というエンジニア氏の驚くべき証言が載っている。
HRCのこの考え方は、基本的に今でも変わっていない。ロッシや、先ごろのマルクなど、幾多の超有能なライダーたちが、HRCに反発しつつ離脱しているが、その一因はこれだろう。
以下は極めて個人的な意見なのだが、この「プロダクトアウトの押しつけ思考」は、レースに限らず市販車でも、ホンダという会社の体質とも言えるものだと思っている。
最近のホンダは、よく「乗り易さ」で市販車を訴求しているが、それは裏返せば、「これを乗り易いと思え」という企業からの要求だ。
会社は、ユーザーがそれに与するように予め念入りにマーケティング(≒ユーザ側の認識の制御)を施しており、その相乗効果で、販売数量の最大化を図っている。
「ホンダは技術の会社だ、その製品はいつも先進的で、常に正しい」というイメージを浸透させておく。そこへ「乗り易いバイク」をリリースすれば、「ああこれが乗り易い、いいバイクなんだ」と、ユーザーは単純に思い込んでくれる。
一般のユーザーは、新製品の購入に際し、実際に試乗して自ら評価するようなことはしない。評価としては、ネットの提灯記事にうなずくのが精々なのだ。バイクの購買層は、経験が浅い若い人(と経験を忘れ去っているリターン組)がほとんどなので、この程度の戦略で簡単に丸め込める。
で、会社の方は、 設計ではなく生産に関する技術開発に特化して、利益の最大化に安心して邁進できる 、とそういうことになっている。
市井の一般ユーザーでも、バイクライフを充実させるには、道具としてのバイクの評価(本当に技術的に進んでいるのか、とか)や、「バイクは本来こうあってほしい」といったフィロソフィーなり、譲れないポイントなりが大切なはずなのだが。実際には、そんなものが関与できる余地を、ホンダというメーカーは特に、提供しない。
・・・といったようなことは、優良なホンダユーザーであらせられる多くの善良な公道ライダーの皆様には余計なお世話だと思うので。話を、ハッチのHRCに戻す。
さすがにHRCともなると、契約書は一応あったらしいが、契約金の交渉は、交渉と言えるものではなく、ほぼHRCから一方的に提示されるだけだったようだ。
その交渉の時のやり取りがまたふるっていて、HRCのエライさんの話っぷりは、最小限をぶっきらぼうに言い放つだけ。
「いくら欲しいの?」
「これしか出せんよ!」
余談だが、このエピソードは、私がかつて勤めていた、某・大企業のエライさんの言動を思い出させた。
ヒラの私が詰めている末端の職場に、重役が電話をかけて来る。電話の主は、出るや否や「田中!」と一言ガナるだけ。田中というのは、部長の名前だ。要するにそれは、部長を出せ、代われ、という要求なのだ。
この電話を初めて受けた時、私は、新手のいたずら電話かと勘繰った。それ位、常識を逸した言動だったのだが、この後も、同じ様な事例は続いた。
要は、大企業でエラくなると、忖度してもらうのが当たり前になって、人格や言動が歪んでくる。そうやって、世間的には非常識な、いびつな生き物になって行く。そういうものなのだ。
再度、話を戻して。
ハッチが居た頃のHRCでは、契約交渉だけでなく、チームの運営の全般が、そんな具合だった。
2st 500ccに進出したシーズン、まずは国内で年間チャンプを取って地歩を固めたい、という当人の希望は、完無視された。
バイクは頻繁に入れ替わった。その動機は、極めて会社都合の色彩が強いもので、最初にあてがった旧型には乗れてるみたいだから、次は新型を放っておこう、どうせ余ってるし・・・といった具合で、意図も意味も特段なかった。
WGPへのスポット参戦を強いられた。無断欠勤が多いスペンサー用のワークスマシンが余っていたし、その隣で、ライバルのヤマハが、平をWGPへスポット参戦させていて、HRCも対抗して、日本人をWGPで走らせてみたい、そういう意向があったようだ。
そういった諸々の状況下、会社目線では、ハッチはやはり、便利屋的に適任だった。
「というわけで、来週ヨーロッパに飛んで」てな感じで、突然のWGPデビューを強いられる。
しかし、上述のように、当時のNSR500は開発が途に就いたばかりで、まだロクなものではなかった。現場では、延々とセッティングを繰り返してもタイムは上がらず、結局、本戦でライダーが男気の勝負に出て、リスクテイクが裏目って、転倒で負傷が絶えない、そういう環境でしかなかった。
国内GPでもそうなのに、さらに世界GPだ。不確定要素は、さらに増える。サーキットは初めてで様子が分からないし、当時の西欧のサーキットは路面が悪く、ランオフエリアも未整備だったりと、ロクなものではなかった。
バイクも、スペンサーが「イチ抜けた」で余っているのを当てがわれて、しかし、セッティング変更が許されるのかも分からず、そもそも、スケジュール的にその時間がないしで、結局は持ち込みの自分のバイクに乗ろうとすると、メーカーの意図との齟齬を感じ取ったチームの雰囲気が悪くなって・・・と悪循環ばかりが回っていた。
全ては、会社の行き当たりばったりの対応が原因だ。
そのシーズン、ハッチにしてみれば、国内とWGPの二股でポイントが分散して、ランキングは低迷。怪我の繰り返しで、身体的はコンディションも悪化した。
会社に振り回されて、結果が出せない状況を改善すべく、自発的に各方面に取り組んだりで、その後は多少の上向きはあったようだが。そのペースは緩く、必要なレベルに達するには、相当な時間を要した。
この時期、NSR500の開発が低迷していたのも効いていた。ガードナーの根性が潰えて以降は、ヤマハやスズキが台頭し、この後、WGPは、レイニー・シュワンツの時代に入って行く。ホンダが再び王者に返り咲くのは、ビッグバンエンジンの開発を経た後、ドゥーハンの時代まで待たねばならない。
ハッチが居たこの時代は、NSRの「低迷の始まり」の時期だった。その開発がトンネルを抜けるのは、まだまだ遥か先のことで、当時のハッチの立ち位置からは、トンネルの出口は欠片も見えない。
結果、やはりハッチは、便利屋的なポジションから脱せなかった。
当人もそれを感じていて、自分が何のために、誰のために走っているのか、走る意義を見失ってしまう。
当初の目的だった四輪レーサーへの転向の道は、とうに閉ざされていた(既に四輪レーサーも専門職の時代に入っていた)。
二輪のWGPにエントリーはできたものの、年齢や怪我といった身体的なコンディションを考えても、その上位グループに届くかは、かなり難しそうに思われた。
必然的に、潮時を意識せざるを得なくなる。
今のハッチは、レースの解説など、ジャーナリスト分野で活躍されている。
ケーブルテレビのSBK中継の解説は、私もお馴染み、かつお気に入りだ。
彼の解説は独特で、特定のメーカーに与する提灯持ち的な色彩がほとんどなく、レース界の最前線での経験を踏まえつつ、歯に衣着せぬ正直な言葉で、唸らせたり笑わせたりしてくれる。要点だけを、少ない言葉でズバリと伝え、後は視聴者の解釈に任せる話し方は、彼の人格の故なのだろう。これは、一瞬を争う忙しいレースの解説には実にふさわしく、かえって分かり易かったりする。説明と称して、自分の意見や知識をひけらかし、ウソも交えて捲し立てる宮城光(モリワキ時代のハッチの同期、今はホンダの提灯持ちに収まっている)とは対照的だ。
本書で、彼の苦しい現役時代を、今さらながらねぎらいつつ。
末永くのご活躍を、願いたいと思う。
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レーサーズ ノンフィクション 第2巻 突っ込みハッチの七転び八起き RACERS - レーサーズ - 書籍 (レーサーズノンフィクション 2) ムック – 2022/11/7
◆ (電子本) 原付ライダー青春グラフィティ: 2スト原付バイク文化が輝いた愛しき70年代 ― 2023/10/18 08:23
Amazon Kindle の電子書籍である。
とあるバイク愛好家が、過去に乗ったバイクの印象や、バイクに乗ることで得られること、その意義などについて、あれこれと記している。
1950年代半ばの生まれと思しき著者は、60年代の日本製バイクの黎明期から、70年代の混乱期(暴走族や3ない運動)、80年代バイクブームの爛熟期、その後の熟成/下降期を、一通り経験された世代に当たる。
日常レベルで楽しめる、身近なバイクを考えた時、小さく軽い原付が、やはり最右翼になる。運転もラクだし、昔は2ストでパワーも結構あったから、ラクなだけの乗り物を超えて、運転そのものも楽しめた。
これが、同じ車体にちょいと大きいエンジンが載る、イエロー(80㏄)やピンク(90~125cc)のクラスとなれば、楽しさも倍増だ。
昔は、飛ばしている原付はまだ寛容な目で見てもらえていたし、構造簡単なバイクは自分でいじるメカの勉強にもうってつけで、ボアアップキットなどの「教材」も、潤沢に供給があった(品質はピンキリだったが)。
この当時の原付は、入門用としての通過儀礼を超えた役割を果たしていた。誰もが通る道であり、だからこそ、ことのほか強い印象を、皆に残していた。
著者が、書名に「原付」を挙げているのは、その辺りの事情の反映だ。
原付以降の著者のバイク歴は、ある意味「日本最強のツーリングバイク」だったTDR250から、中年・子育て期の低迷を経て、往年の原付2種ビジネスバイク(やはり2stだったりする)による、まったりツーリングの辺りに、回帰・収れんしている。この世代のバイク歴としては、よくあるタイプかと思う。
この本、内容は何ということもない、ただのオッサンの昔語りなのだが。あえてここに取り上げたのは、この著者の言う「青春グラフィティ」が、バイクという乗り物そのものの青春時代と、重なっているように思えたからだ。
世界を席巻するに至る日本のバイクが、生まれ、育ち、成長、熟成し、ピークアウトして、行き詰まる。その様を人間に準えると、この著者の経験に、ほとんど重なるように感じられた。
逆に言うと、バイクという乗り物が提供できていた楽しみというのは、この著者の経験談に、ほぼ集約されているのではないかと。
最初に乗るものであり、
最後に戻ってくるもの。
最初であり、最後。
つまり、全てだ。
内燃機の良さを、気軽に楽しめた時代。
軽く小さく、気負いの要らない車体。
ピーキーだが、扱い切れるパワー感。
いろいろ選べるラインナップ。身近に置けるプライス。
実際に乗ってみれば、立ち上がる臨場感と、緊張感。
「ああ、生き返る」
あの感触。
バイクに優越感は似合わない。
(それが欲しければ四輪に行けばよい。)
他人に比べてどうこうではなく、純粋に自分自身の楽しみとして、身近に置きたいと願う道具。
実際、今も、世界規模の業界としてのバイクを支えているのも、ここの市場なのだ。
その「裾野」が無くなってしまった日本の市場は、やはり、いびつなのだろう。
今、バイクメーカーのラインナップを見直しても、このクラスの選択肢は、ほぼスクーターばかりで。昔のような幅はない。
昔は、オフ車からアメリカンから、それこそ無数のタイプがあった。
広くて緩やかな裾野のどこからでも、入り、登れた時代を、懐かしく思い出す。
あの情景は、もう再生しえないのかと。
漠然とした寂しさを、改めて感じる。
Amazonはこちら
原付ライダー青春グラフィティ: 2スト原付バイク文化が輝いた愛しき70年代 Kindle版
とあるバイク愛好家が、過去に乗ったバイクの印象や、バイクに乗ることで得られること、その意義などについて、あれこれと記している。
1950年代半ばの生まれと思しき著者は、60年代の日本製バイクの黎明期から、70年代の混乱期(暴走族や3ない運動)、80年代バイクブームの爛熟期、その後の熟成/下降期を、一通り経験された世代に当たる。
日常レベルで楽しめる、身近なバイクを考えた時、小さく軽い原付が、やはり最右翼になる。運転もラクだし、昔は2ストでパワーも結構あったから、ラクなだけの乗り物を超えて、運転そのものも楽しめた。
これが、同じ車体にちょいと大きいエンジンが載る、イエロー(80㏄)やピンク(90~125cc)のクラスとなれば、楽しさも倍増だ。
昔は、飛ばしている原付はまだ寛容な目で見てもらえていたし、構造簡単なバイクは自分でいじるメカの勉強にもうってつけで、ボアアップキットなどの「教材」も、潤沢に供給があった(品質はピンキリだったが)。
この当時の原付は、入門用としての通過儀礼を超えた役割を果たしていた。誰もが通る道であり、だからこそ、ことのほか強い印象を、皆に残していた。
著者が、書名に「原付」を挙げているのは、その辺りの事情の反映だ。
原付以降の著者のバイク歴は、ある意味「日本最強のツーリングバイク」だったTDR250から、中年・子育て期の低迷を経て、往年の原付2種ビジネスバイク(やはり2stだったりする)による、まったりツーリングの辺りに、回帰・収れんしている。この世代のバイク歴としては、よくあるタイプかと思う。
この本、内容は何ということもない、ただのオッサンの昔語りなのだが。あえてここに取り上げたのは、この著者の言う「青春グラフィティ」が、バイクという乗り物そのものの青春時代と、重なっているように思えたからだ。
世界を席巻するに至る日本のバイクが、生まれ、育ち、成長、熟成し、ピークアウトして、行き詰まる。その様を人間に準えると、この著者の経験に、ほとんど重なるように感じられた。
逆に言うと、バイクという乗り物が提供できていた楽しみというのは、この著者の経験談に、ほぼ集約されているのではないかと。
最初に乗るものであり、
最後に戻ってくるもの。
最初であり、最後。
つまり、全てだ。
内燃機の良さを、気軽に楽しめた時代。
軽く小さく、気負いの要らない車体。
ピーキーだが、扱い切れるパワー感。
いろいろ選べるラインナップ。身近に置けるプライス。
実際に乗ってみれば、立ち上がる臨場感と、緊張感。
「ああ、生き返る」
あの感触。
バイクに優越感は似合わない。
(それが欲しければ四輪に行けばよい。)
他人に比べてどうこうではなく、純粋に自分自身の楽しみとして、身近に置きたいと願う道具。
実際、今も、世界規模の業界としてのバイクを支えているのも、ここの市場なのだ。
その「裾野」が無くなってしまった日本の市場は、やはり、いびつなのだろう。
今、バイクメーカーのラインナップを見直しても、このクラスの選択肢は、ほぼスクーターばかりで。昔のような幅はない。
昔は、オフ車からアメリカンから、それこそ無数のタイプがあった。
広くて緩やかな裾野のどこからでも、入り、登れた時代を、懐かしく思い出す。
あの情景は、もう再生しえないのかと。
漠然とした寂しさを、改めて感じる。
Amazonはこちら
原付ライダー青春グラフィティ: 2スト原付バイク文化が輝いた愛しき70年代 Kindle版
◆ (単行本)二輪車産業グローバル化の軌跡: ホンダのケースを中心にして ― 2023/05/20 16:28
前回のエントリーと同じ目的で題名買いしたのだが。内容はかなり違っていて、時系列もずれており、前回の本とは同列に扱えなかったので。こちらに、別途紹介だけしておく。
本書は、日本の二輪産業について、その黎明期から、グローバル企業として大成するまでのトピックをいくつか挙げて、章別にまとめた本だ。
トピックと章立ては、以下のような構成だ。
・ ホンダ黎明期の社内の様子
・ 量産立ち上げに際し、宗一郎が語った技術哲学
・ 二輪産業黎明期の模倣~創造への変遷
・ ホンダTTレース参戦記
・ ホンダとカワサキのアメリカ市場進出
・ ホンダの二輪現地生産化
黎明期~立上げ期の話題が多く、どちらかというと「青春時代を振り返る」体の、よくある内容になっている。
ネタ元のほとんどが、社報や雑誌など一般的な情報のためか、あまり突っ込んだ内容ではない。
2011年の刊と、既に10年以上の時間が経っていることもあり、少々古臭くも感じる。
ともあれ、日本の二輪業界の成長の様子を一足飛びに読み切れるという点では優れた書籍であり、特にホンダファンにはお勧めできると感じた。
Amazonはこちら
二輪車産業グローバル化の軌跡: ホンダのケースを中心にして 単行本 – 2011/2/28
◆ (単行本)国際分業のメカニズム 本田技研工業・二輪事業の事例 ― 2023/05/10 14:28
表題の「国際分業」とは、「グローバル企業が、世界中に配した工場の生産割り振りを最適化するプロセス」を指す。
本書は、HONDAの2輪事業を例に、その国際分業の最新の事例を明らかにすべく研究成果をまとめたものだ。情報ソースは、過去の同類の文献はもとより、巷の新聞や雑誌の記事、HONDAへのヒアリングなどに依っている。
本稿では、まず、本書に描かれる「HONDAの国際分業」をかいつまむ。次に、その内容をナナメ読みすることで、「HONDAがどういうつもりでバイクを作っているのか」を描く。それにより、私の長年のHONDA研究(?)の総仕上げとしたい。
そもそもこのブログ自体、私のバイク好きが高じて、何かしら文献を挙げ、そこからインスパイアされた内容を書き残す目的で始めたものだ。最近は、肝心の「バイク」が抜け落ちて、一般書のログばかり書いているが、過去、例えばNRなどを題材に、HONDAのバイクづくりの姿勢について、主に文句を書き連ねてきた。
※ バイク関連の過去ログ一覧は こちら 。
「NR」や「ホンダ・フラッグシップ」辺りで画面検索してください。
HONDAに限らず、バイクメーカー一般に言えるのだが、ユーザーのためとか、技術者の夢とか、進化だの安全だのと喧伝の言葉の美しさとは裏腹に、肝心の製品の出来はといえば、ユーザーのことはあまり考えていないと思しきものが少なくない。「これだ」という機種は、よほど探さねば見つからないし、あってもレアな外車だったりして、HONDAのような大メーカーは、かえって期待薄と感じていた。(私の場合、公道バイク最良として認めたのは、80年代モトグッチという、レアの中のレア車だった。)
HONDAは世界に冠たる大メーカーで、出している機種も多いから、ハズレも多い、だから余計そう感じさせるのだ、という解釈も可能かもしれない。だが、パーツの供給が悪いとか、メンテ性が悪いといった巷の悪い評判を、我が身で実感する機会が多かったのも、また事実だ。
そのHONDAの、バイクづくりの実際とは、どういうものか。
本書は、その一端を教えてくれた。
それを報告したい。
● 本書に描かれる「HONDAの国際分業」
現在、HONDAは、以下の7つの生産拠点(Fab)を持っている。
日本、中国、タイ、イタリア、ブラジル、インド、ドイツ
これらを「分業」して、市販車の量産を行っている。
Fab選択の原則は「製品の仕向け地に最も近い」ことだ。
地産地消が、最も有利(主にコスト的に)だからだ。
新型車を造る際、初めの企画段階から、仕向け地が決まっている。国ごとに市場の質やニーズが違うし、エミッションなど法規制の内容も違うしで、多国向けを同時並行するのが難しいという事情もある。が、そもそも「どこに出すか」を初めに決めてかからないと、商流が決まらないので、ビジネスとしての話が始まらない。
また、基本、一度決めたFabの変更はない。Fab変更は、えらく大変でペイしないから、実質的に「変えられない」のだ。そんなわけで、この初めのFab決定は、ビジネス上、実に大きな影響を及ぼす。
HONDAの新型車の量産立ち上げは、次のような手順を経る。
まず、企画立案をする。どんなバイクを造るか。それをまず決める。
発案の経緯は、本書には2種類が挙がっている。技研での研究成果(要素技術開発)など内発的なものと、各国のセールスの要望など外発的なものだ。この立案段階で、大まかな仕様、例えば、仕向け市場や排気量クラス、コミューターか娯楽用か(用途)、オンとかオフとかのカテゴリー、価格レンジ等々の概要を決める。
次に、生産の検討だ。そのバイクを、どのFabで、どうやって量産するか。部品の調達と、量産技術、つまり、アセンブリラインそのものの設計(治具など)や、アセンブりの工程(工数)などの検討を行う。これにより、当該モデルのコストの全体像が見えてくる。
最後に、そのコストのフィードバックを受けて、当初の企画の目的に適うものかどうか、セールスも交えて、検証~検討を行う。その結果を、初めの企画の内容にフィードバックする。
この3段階を繰り返すことで、企画のビジネス性を詰めていく。その頻度は、ほぼ毎週という場合もあるようだ。
といった検討の大枠が大小あり、その上位機構を、HONDAでは「SED評価」と称するらしい。次に挙げる3つの社内セクションが顔を突き合わせて、各々のファンクションから、新型モデルの事業性を高める仕組み、といったような意味合いらしい。
S:Sales 地域統括本部、二輪事業企画室
E:Engineering 生産企画部
D:Development 本田技研、二輪事業企画室
ちなみに、ここで言う Engineering とは、量産技術、アセンブリ関連の開発のことだ。対して、新エンジン開発といった技術開発は、Developmentと言い分けている。
また、地域統括部は、現在、
日本、中国、ヨーロッパ、北米、南米、アジア
の6つがある。これらが、各々の受け持ちエリアの情報収集と提案を担う。
新型車の量産は、S/E/Dの全てを考慮して最適化される。どれか一つにより、一意的に決まることはない。
しかし、いくら綿密に検討したとて、見落としは常にありうるし、市場も刻々と変化する。最近では、国際情勢の変化も突然で、かつ大きい。常に最新の情報・状況に即したアップデートが必要だ。
だからHONDAは、この検討を定期的かつ頻繁に行い、プロジェクトを練りに練って、その確度を上げている。
そうして、最高の効率で、最適のタイミングでの新型投入を期すべく具現化した結果として、スケジュールに落とす。
HONDAには、10年先まで見据えた、100を超える機種を網羅した、このスケジュール表があるという。そのマスターは半年毎に更新され、例えば、各Fabの生産計画の見直しなど、全社の業務に波及的に反映される。
上記の「検討」の指標だが、メインは無論「収益性」、ナンボ儲かるか、つまりはコストだ。
ただ、それだけではなく、事業的なロングタームでの観点、例えば、「将来的にこのFabを小排気量向けに特化して育てたいので、その立ち上げ、またはテストケースを兼ねる」のような事業レベルでの展望も加味される。
そういった活動の結果として、HONDAは、Fabの増減や配置変えを継続的に行い、製品の供給網を状況に即して調整してきた。
その主なものとして、以下のような事例が挙げられる。
・日本市場の大幅な縮小に伴い、浜松のラインを廃止し熊本に統合。
・中国の偽ブランド会社を買収/吸収し、安価な部品調達網を確保。
・中国Fabから格安の原付を日本に輸入(その体制整備をイチから)。
・タイFabをグローバル対応Fab(特大ロットに特化したライン)として育成。
・小ロットモデル(大排気量娯楽機)を熊本Fabに集約。
かつ、グローバル調達と量産技術マスターFabとして特化。
新型車が実際に量産に移行した後も、検討とフィードバックは続く。
例えば、他国のFabからの輸入で賄っていたモデルを、現地生産に切り替えたケースがあったという。これは、仕向地のFabが、HONDA社内のプレセンスの向上を目的に本社に提案、本社がそれを採用する形で実現した事例だそうだ。これはボトムアップ方向のケースだが、トップダウンもありうるとのこと。決まったやり方(いわゆる「掟」)はなく、柔軟性をもって是とする思想が感じられる。
なお、コストに関しては、Fab調整に留まることなく、新規の取り組みもトライされている。
例えば、多機種向けの汎用エンジンの開発や、グローバルモデルの企画導入などがそれで、生産量増大(大ロット化)によるボリュームディスカウントを狙ったものらしい。
(私見だが、グローバルモデルは1つのFabに集約しないと意味がないので、地産地消型に比べて輸送費の面で不利になる。量産効果 vs 輸送費の兼ね合いになるのだが、輸送費は情勢で大きく変動するので(先のコロナ過の時は酷かった)結果を出すのは簡単ではない。今出ているグローバルモデルの価格が妙に割高なのは、この辺りに原因があるのかも知れない。)
以上が本書における「HONDAの国際分業」の超あらましだが、生産技術(部品調達とアセンブリ)に偏った印象だ。これが例えばTOYOTAだと、JITに代表される流通面での取り組みと、(ラインワーカーによる自主的?な)アセンブリでのムダ省きが有名だ。このように、社内調整機構の形は各社各様で、上記はHONDAの事例として特有のものと理解されるべきだろう。
(余談として、私の個人的な印象を記すと、TOYOTAのクルマが高い品質で安定しているのに対し、HONDAの製品(クルマとバイクの両方)は故障や寿命の面で劣っている印象(てか経験)が強い。ひょっとすると、製品毎に生産技術を変えているため、クオリティが安定していないのが一因かも知れない、と勝手に想像した。)
● 私説 「HONDAのバイクづくりの姿勢」
HONDAが「次にどんなモデルを作るか」に関して、本書では、技研の要素技術など内部要因と、仕向地のセールス部門からの要望の2つが挙がっていた。
どちらにしろ、社内の誰かが「次はこんなのが売れるだろう」と見当をつけることに端を発するのは同じだ。つまり、市場調査の意味でのマーケティングに依っているはずなのだが、量産最適化に焦点を当てた本書には、HONDAのマーケティング部門の働きに関する記述はない。
ただ、本書に記述されている量産化検討の第一義的な目的が、収益性にあることは明らかだ。その算出には「どれだけ売れるか」つまり販売フォーキャストが必須となる。
HONDAが、フォーキャストの算出にも(それなりに?)確かな仕組みを社内に保持していることは確かなのだろうと思うのだが、詳細が不明なので、とりあえず今は「前提」として置いて進む。
やはり、HONDAの新型車の企図は「どれだけ儲かるか」にあるわけで、HONDAという組織の目的がビジネスである以上、それは当然の帰結である。
しかし、我々ユーザーにとって、バイクの収益性は関係ない。粗利率が小さい製品はおトクだ、のような価値判断もなくはないようだが、ことバイクのような趣味の道具には通用しない。壊れずにちゃんと走って、乗って面白いバイクが一番だ。ユーザーの価値基準はそこにある。
ユーザーの喜びとか、夢の新技術といった宣伝文句はよく見かけるが、実際の製品が、全く別のものに見える場合も少なくない。(HONDAが言う「ユーザーの喜び」が、乗る喜びではなく、買う喜びだ、ということなら話は違うが。実際に、そういうユーザーも居るので、無下にはできない。)
HONDAの評価軸が、バイクそのものの設計よりも、量産設計の方に力点があるようなのも気になった。本書にも、設計図面は生産部門に送られて、量産性の観点で厳しいチェックを受ける、とハッキリ書いてある。収益性が要点なのだから、量産技術に重点があるのは当たり前なのだが、我々が求める「HONDAならではの優れたバイク」は、バイクそのものの設計技術の方を期待している訳で、その意味でも、裏切られた感は拭い得ない。
アセンブル工程が最適化されていて、キチキチに詰められていると思しき現状は、ユーザーの立場でも実感することがある。昔のバイクは、日々のメンテにもある程度配慮されていて、要所へのアクセスは容易なように作ってあったりしたものだが、最近のバイクは、その要所への直接のアクセスが難しく、手前にある諸々を順繰りに取り外す手間が当然になっている。この作業が、組付け工程を逆方向になぞっているように感じることがままあるのだ。機械的に、アセンブルの逆順にしかバラせない構造になっているのでは、と勘繰ったりしている。
逆に、HONDAの側の目線に転じてみれば、同情の余地もなくはない。
市場の質は様変わりした。
昔のように、レーサーもどきを無邪気に投入すれば済むほど、ことは簡単でなくなった。
市場のみならず乗り手も成熟していて、実直層とハイパー層に両極端化している。
実直層の価値観は読みにくい。
ハイパーバイクは既にワンミス即死のレベルに達していて、展開の余地はほとんど残っていない。
エミッションは厳しくなる一方で、電動化の絶壁断崖が近づいている。
従来の延長の技術開発で稼げる余地は、もうほとんど残っていない。
結果としてHONDAは、唯一の強みだったエンジン技術を全て捨て去る決断を、自ら吐露するに至った。そこまで追い込まれたのだ。
「ユーザーの夢」などとホラを吹いている余裕は、とうになくなっている。
ハイパーモデルは数が出ないし、実直モデルは単価が低い。どちらも儲けるのは大変だ。
稼ぎ頭のコミューターも、価格が焦点なのは言うまでもない。
畢竟、コストダウンが当面・唯一・最大の課題となり、そこに集中することになる。
コロナ渦も悪かった。部品不足で新車が欠乏した所に、3密回避な趣味としてバイクの人気が急上昇した。結果、魅力がないから残っていた新車が、奪い合うように高価で売れた。メーカーとしては「こんな物でも良かったのか」と、気が緩んだとて仕方ない。以降、同じようなユルいモデルのラインナップが続いている。
ビジネスが保守化し、新規企画が「安全に売れるもの」に収れんしてしまうのは、HONDA以外のメーカーも同じだ。かつては特徴がはっきりしていた外車勢も、似たり寄ったりの製品を出してきている。
HONDAは、他ではやらない独自性がカラーだ、とかつては言われたし、自称もしていた。しかしもう最近では、HONDA独自の物と言われても、何も思い浮かばない。
HONDAという会社は、技術者が自由にやれる楽園だとの評も、昔は聞いた。しかし、本書に描かれる社内の様子を見る限り、そういった雰囲気は感じられない。技術的な興味や進歩性、顧客の評価などではなく、会社の利益に、ただひたすら奉仕しているように想像される。技術者が楽しんで仕事をしているようには、もう到底思えない。
NRは技術者の夢だった、と誰かが言っていた。
当時、技術系従業員のこだわりをユーザーに価格転嫁する姿勢と受け取った私は、その物言いにひどく反発したのだが。あれが、ノスタルジーの意味だったとすれば、少しだけ合点が行く。
このところ、私はずっと、終(つい)の一台を探している。
死病を得てからしばらく経つ。もう余命も見えている。
(現に、本稿を含めこの所しばらく、当ブログの入稿は、病院のベッドから行っている。)
終の一台の候補として、HONDA車も眺め続けているが。
バイクの内容に比べて割高に感じられて、食指が動かない。
HONDAにお願いしたいのが、もっと安いのを(=さらなるコストダウン)になってしまうというのも、皮肉なものである。
かつて、二輪業界を破竹の勢いで制覇した、煌びやかだったあのHONDAのことだ。技術的な引き出しはたくさんあるはずなのに、出して来るものがこの程度というのは、どうしたものか。
例えば今、私の息子に、バイクを操る楽しみを伝えるべく、最適の教材たる一台を残すことを考えたとして、HONDAのバイクは、やはり候補に入ってこない。ラインナップに「操る楽しみ」を考えたバイクがないのだ。(「乗り易い」のはいっぱいあるが。そんなのは、飽きが来るのが早まるだけだ。)
これぞホンダ車、という説得力のあるバイクを、最後に見せてもらいたいものだが。ないものねだりなのだろう。
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国際分業のメカニズム 本田技研工業・二輪事業の事例 単行本 – 2018/12/28
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