「里」という思想 ― 2011/12/31 13:51
自然に暮らす感性から、近~現代の感じ方、考え方を論じる
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ひさびさに、哲学の本を読んだ。
哲学といっても、難しい古典の話ではなく。普段の我々の感じ方、考え方について、ちょいと掘り下げてみる、という哲学だ。材料が身近なので、つい手に取って、考えてしまう。久しぶりに、じっくり本を読んだような気がする。
何だか、すっきりした。(笑)
筆者は、田舎に住んでいる。その、自然豊かな「里」から、近代を眺めると、どう見えるか。このところ、我々は急速に進歩や発達をしてきたわけだが、その変質や歪みについて、とある視点を提供している。
「戻る場所は、あるもの/あるはず/あるべき」という考え方は、何だか普通になってしまっているように思う。「自分探し」や「居場所」といった類もそのニュアンスを持つし、宗教や「約束の地」なんかは正にそのものだ。クルマのレースはだいたいスタート地点に戻ってくるし、電気回路は電源に始まり、電源に終わる。(これはちと違うか。)まあ人間というのは、居を定めて、毎日そこと外界を行き来する行動様式が多いので、あらかたの物事を、そのイメージで考えるもの、なのかもしれない。
筆者がつづるのは、我々が持つ、その「戻るべき場所」の意味と、変遷だ。
以下は、その私なりの解釈である。
「物事を捉える」、つまり「それが何であるかを決める」とき、必要なものが、二つある。
「物差し」と、そのゼロを当てる「原点」だ。
捉えたい物事があるとき、我々は最も適すると思われる物差しを選び、原点にゼロを当てて、そこから、目的までの長さや、大きさ、遠さなどを測る。
かつて「物差し」は、生活に密着していた。
住む土地の風土や気候、山野や田畑など、日々、自分が触れる物事が、その主な対象物だった。
それは、バリエーションに富んでいた。
極端な話、隣人と耕す田畑が違えば「物差し」も異なる。いわば、皆がワンオフの専用ツールセットを持っていたようなものだ。
おらがムラやクニで、話し言葉から異なっていた時代。「物差し」は、人と違うのが当たり前だった。「人それぞれ」でよかったし、そこにさほどの優劣も無かった。いわば、違いを前提として、共有できていたのである。
それが、近代化、戦争、経済成長と、時を経るに従い、均質化する。
過去は古臭いもの、終わったものとして打ち捨てられ、万人が受け入れるべき「正しいツールセット」が、外部から提供される時代になった。
それらはしばしば、もっともらしく、正しげな外見をしている。例えば、民主主義とか、人権とか、資本主義とか。
そういった、「唯一で正しいツールセット」を使うのが善、(それ以外は悪)、という時代になって行ったのだ。
その一方で、「原点」の方は浮いたままだ。
当たり前だ。物差しには使い方がある。
前提を共有したり、深く理解したり、練習しないと使いこなせなかったりする。
ただ物差しだけを与えられても、役に立つとは限らない。
見よう見まねで使っても、何だか空々しく、危うい。
そうこうするうち、不安は、次第に疑問に凝縮していく。
「そもそもこの物差しは、私を計るのに、適しているのだろうか。」
我々の不安や疑問が、この「物差しの一本化による価値観の矮小化」という逆説だとしたら、「グローバリゼーション」も同じコンテキストにある。デモやテロなど、今、世界中で起きているのは、我々が不満に思い、不安におののいているのと、同じことではないのか。
もうひとつ、著者の視点で面白いなと思ったのは、終盤に展開される「未来」に関する下りだ。
「未来」とは本来、死を指していた。極楽浄土とか、天国に召されるかが「未来」であって、現世(現生)はそのための「約束」だった。その考え方を支えたのは宗教だが、世俗化が進むに従って、未来は「生きているうちの将来」、つまり現世利益に変容した。それからこっち、「約束」が果たされないこと、生きているうちに欲求が満たされないことが、不安や不満として大きくなった。
面白い見方だ。
我々は進歩して、神と別居した挙句、死を超えられなくなった。
小物になった、というわけだ。
筆者は、ローカルなものの肯定を非常に重要視しているが、私は、それだけでは解決にならないと思う。
ローカルでいいなら、ただ自分の快い所に閉じこもってしまえば済んでしまう。
哲学は、閉じてはいけない。外へ向かって、花開くもののはずだ。
「昔は良かった」かもしれない。
しかし、単純に昔に戻っても、解決にならない。
(また、水汲みから始まる田舎の生活に戻るのか?。)
田舎暮らしをすれば解決する、とも思えない。
(したい、とはたまに思うが。)
「真実はひとつ」とは限らない。
大体、何が真実かもわからないのに、それが一つだと、わかるわけがない。
だから、「唯一の原理にたどり着いたから、これが真実だ」というロジックや、「これが真実、これ以外ありえない、知らないのか?」といったレトリックは、すべからく疑ってみた方がいい。
まず、何が良くて、悪かったのか、整理しないと。
そのためには、間違った「前提」を外して、思索を自由にしないと。
「全てはフローティング」
原点無しだ。
この不安定さに耐える覚悟が、哲学の第一歩だ。
物事に理由をつけて安心する癖も、やめた方がいい。
何か起こってしまった後から、アレはこうだったから・・・といくら理屈をコネたところで、解決もしないし、納得もされない。
(一般に、それは理由ではなく、言い訳という。)
哲学は、過去に都合をつける道具ではなく、未来に働きかけるもののはずなのだ。
本書は、9.11までの、筆者の思考をまとめたものだが。
その後の、震災のあれこれ(原発!)とその後の何某を見ても、原因は、同じことのように思える。
近視眼域に閉じこもり、将来を負わないこと。
我々は、将来に対する、あらゆることの当事者なのだ。
静かに閉じこもっていないで、 もっと怒るべき と感じる。
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「里」という思想 (新潮選書)
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