読書ログ 「意識は傍観者である」 ― 2012/09/08 06:15
今まで、同じような本をさんざ取り上げたので、「来ると思った」と言われそうな一冊だが。題名そのままの本だ。
例によって、早川書房の科学読み物である。
普段、我々は自分の意思で行動していると思っているが、実際は、意識というのは脳が行っている膨大な活動のほんの一部を占めるに過ぎず、むしろ活動の主体からは切り離された「オマケ」のようなものだ、ということが、これでもかと言うほど豊富な事例でもって述べられている。
我々が普段、自分の主体だと思っている「意識」は、脳が行っている処理の一部を、後から追認しているだけに過ぎない。
本物の主体の方、無意識、と言えるかもしれないが、そっちの方の実態は、臓器としての脳の物理的な構造や、成長の過程で環境から得た刺激(情報)の蓄積による適応の結果、形作られるものらしい。例えば、人格は脳の損傷や病気(腫瘍など)で変るし、育った環境の影響も大きい。
などと無理やり書いてみても、何だかよくわからないのだが、それもそのはず。脳の活動は複雑で、まだ解明の途上、というか、まだ断片しかわかっていない、とのこと。例えば、あなたと私の意識は形や構造が違うのか?はもとより、イヌに意識があるのか?すら、明確な答えは無いと。
しかし、本書では、その解明の様子や、意味についての考察もあるので、単なる情報の羅列にとどまらず、いろいろと好奇心がそそられる。
例えば、
もし、意識が、所詮は決定権のない、ただの傍流のサブシステムであるなら、なぜそんなものがあるのか。
だって、なくてもやっていけるんなら、あっても仕方ないではないか。
いや、意識の存在に理由や意義がないのだとしたら、その存在に「なぜ」と問うこと自体、的外れなこと、なのかもしれない。
しかし、そうだとすると、物理的な解析や、論理的妥当性による検証で脳を理解しようとする、現代の脳科学は、全て的外れになってしまう。
まして、そんな影の薄い「意識」に向かって、数値目標やコンプライアンスなどをしつこく要求するウチの上司は、とんでもないボンクラだ、ということになる。(笑)
本書の情報は、断片かもしれないが、我々が自分を考えるのに刺激になる。
もし、自我が「慣れと適応によるパターンマッチングの成果物」だとしたら、もっとマシな適応様式の確立が可能そうだ。(昔の宗教は、それをやろうとしていたのではないか、と思うのだが。)
また、仕事を憶えるにしても、今の通り一遍のOJTよりも、昔ながらの「見て憶えろ」の方が、人間の性に合っていたのかもしれない。
きっと、幸せの本体も、意識の向こう側にあるので、見えにくいのではないだろうか。
個人的には、既知の内容がほとんどだったので、あまり真新しい感じはしなかった。
それに、本当に自分のことをよく考えたい人なら、脳科学ではなく、哲学の方が適しているように思われる。自分が何を考えているのか考えるというのは、哲学そのものだからだ。
いつぞや取り上げた、 「禅とオートバイ修理技術」 のあたりの方が、そういう意味での「前進」には役立つと思った。
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意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)
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