読書ログ 「プルーフ・オブ・ヘヴン」 ― 2014/02/15 07:12
脳神経外科医が書いた、臨死体験の本である。
髄膜炎で1週間、意識を失っていた際の「体験」が書かれている。
内容としては、題名そのものだ。
「天国の証」
淀んだ不透明な場所から引き揚げられて、美しい光と、美しい音と、美しい風景に満ちた場所に到って「全能の愛」を感じた、また来た道を逆行し淀んだ世界に戻って目を覚ました、その途中で、既に亡くなっている親類に会ったり、外(病室、つまり「現世」)で自分(の身体)に話しかけたり祈ったりする人々の声を聞いた、
「あの世」は、物理的、時間的な概念とは違うところにある、ピュアに意識の世界であり、現世で感じる物事よりも、遥かにリアルな存在である、云々。
著者はそれを、純粋に霊的なもの、スピリチュアル、宗教的、そういったものと理解していて、その内容を正しく伝えることに、一種の義務感のようなものを持っているようだ。
臨死体験の内容としては、他にあるものと、よく似ている。
特に、真新しくない。
書いているのが脳神経学者だから、信憑性がありそうだ・・・
というのが話題性なのだろう。向こうでは、結構、売れている本らしい。
でも正直、それほどの本だとは思えなかった。
脳科学者ならでは内容というのは、ほとんどなかった。
終章に近くなって、脳科学的な知識をベースに、今回の体験を理解しようとするとどうなるか、という多少理屈っぽい解説は載っているが。「やっぱり、スピリチュアルなものとして考えざるを得ない」のような、結論ありきとも思える筋書きで、あまりパッとしない。
彼は、こうなる前は、ゴリゴリの科学者で、臨死体験による「あの世」などは、絶対に認めない類だったそうだ。ただ、今回、こうなって以降、臨死体験による突拍子もない体験談が、すごくリアルに理解できるようになったと言っている。これは、体験した人間にしかわからないのだろうと。
つまり、死んだことのない一般ピーポーにはわからない。
初めから、そう言っている。
そのせいかどうかはわからないが。
やっぱり、私には、さっぱりわからなかった。
この手の話は、「どうしても筋の通らない世界があることの証拠」が、「私が感じたことの現実感の強さだ」という理屈にならざるを得ない。本書も、その枠を一歩も超えていない。
だから、何か腑に落ちたとか救われたこともなかったし、まして、「あの世がそんなにいい所なら、ほいじゃいっちょう死んでみますか」とは行かない。
この手の読み物で、不思議だなあと思うのは、「天国」の感じが、「極楽浄土」とよく似ていることだ。(巻末の解説にも、同じことが書いてある。)
彼が見てきた場所が、「お釈迦様が垂らしてくれたクモの糸が切れなかったらたどり着ける所」で、実は創造主と仏様は同じ人(人じゃねえっての)なのかどうかは、知る由もないが。
現世の俗物たるワタクシの理解としては、人間というのは、死に際にそのような記憶を持ちうるものであって、昔から数多く語られてきた臨死体験を、宗教の側が体系化しつつ取り込んできた、つまり、事実は、この本にあるのとは逆の方向に進んできたのではないかと思うのだが。
著者の理解は無論、反対で、厳然として存在する「あの世」と「神」の一端を、キリスト教辺りが教えてくれているという、自身の宗教的な知識をベースに理解しているようだ。
もっとも、彼が「向こう」で感じたものは、神のイメージを包含する(上回る?)ものだそうで、彼はそれを「オーム」と呼んでいる。
とこの時点で、95年のあの騒動を経験した日本人である私としては、違うイメージが沸いてしまって、胸クソ悪い拒否感を持ってしまうのだが。(きっと煩悩のせいだ。)
しかし、読み物としては、よく書けている。
初めに発症し、症状が進む辺りの「ヤバイやばい・・・」という臨場感。
(引き込まれる。)
自分を治療する医師団や見守る家族などの「こっち側」と、
その間に彼が見ている「向こう側」と、
彼の来し方(過去の話、身の上話)が、
オムニバスに進む造り。
こなれた文章に、細分化された章分けで、読むのに負担が少ない。
量としてもほどほどの、200ページちょい。
濃いわ重いわ(高いわ)が普通の「早川の科学読み物」にしては、異例の読みやすさだ。
どちらかと言うと、推理小説に近い読後感だった。
出張の時の、新幹線のお供にはいいかもしれない。
Amazonはこちら
プルーフ・オブ・ヘヴン--脳神経外科医が見た死後の世界
コメント
_ 1km-diver ― 2014/02/15 18:35
_ ombra ― 2014/02/16 09:11
「成功カウンター」ですが、どうも、マジメにご提案いただいていたようで、その節は失礼しました。(右にカウンターをつけると、アクセル・ブレーキと操作がかち合うからムリだよなあ、などと即物的なことを考えていました。)
「失敗カウンター」の方ですが、私自身は実践していません。
記事に載せた写真もそうですが、本にあるものを紹介しただけです。
ブログの趣旨として、本にあることの要旨と、私が感じたことの、基本的な所をお伝えするだけで、それが正しいのか、実際に応用するのか、するとしたらどうやって、の辺りの判断は皆さんにお任せ、というスタンスでおります。
いただいたコメントには、これがマネージメント法だとも書かれていますが、そも、この手法には、何かを測ったり、制御したりといった意図は、あまりないようです。それ以前の、何かを始めるにあたっての心づもりの方に、主な効果があるように書かれています。
誰だったか、有名なGPレーサーだったと思いますが、サーキットで早く走ろうと思うのが「モチベーション」、朝、サーキットに行こうと思うのが「デタミネーション」というようなことを言っていましたが。モチベーションをコントロールするのがマネージメントなら、こちらの方は、それ以前の段階、determinationの方に、より近い意味合いかと思われます。
この本の目的は、バイクを操るということが、脳科学、認識論、スポーツ工学的にどう理解されるのかを解説することであり、そのためのノウハウの一端を紹介することにあります。
また、著者は、ライディングスクールのインストラクターのようなこともやっているようで、バイクはこう乗るべき、といったカリキュラムといいますか、方法論を体系的に持っていて、それを人に伝えることを生業にもしています。普段、街中で見かけるライダーのお茶目っぷりを苦々しく眺めていたりもしているようで(笑)、どちらかというと、できないことを埋める、欠点を正す方向の書き方が多いようです。だからといって、まず失敗を正すことが成功につながる式の考え方の人かと捉えると、また違うようなので、注意が要ります。
仰る通り、成功と失敗は直接に表裏にあるものではなく、ある程度は関わりなく、別個にあるものです。しかし、課題というか目標といいますか、「できるようになりたいこと」はできないことの方にある、と考えると、言葉が違うだけで、同じことを言っているようにも思えます。公道で「やりたいこと」というのは、スピードとかタイムなどの即物的なことを据えるとすぐに行き詰まりますから、うまく乗る、かっこよく乗る、安全に、スムーズにといった、抽象的なことの方が多いでしょう。だから、なおさらです。
まあ、スタートの動機がどうあれ、目的が「成功」の方にあるのは同じで、そのためにはどうするか、といった方法論の方に、この後、話が移って行きますので。またご参考になさってください。
実は、私の興味はまた別の所にあって、簡単に言いますと、「血の通った、生きた道具としてのバイクとはどんなものなのか」を、本書が、横からあぶり出してくれるのではないかと、少し期待しながら読んでいるのですが。そちらの方も、何か掴めたら、またまとめたいと思っています。
ブログを拝見しました。
あの水冷を、ご自分でここまでバラして維持管理されるとは。
感服いたしました。
私は、自分で整備したルマンには、怖くて乗れません。(笑)
「失敗カウンター」の方ですが、私自身は実践していません。
記事に載せた写真もそうですが、本にあるものを紹介しただけです。
ブログの趣旨として、本にあることの要旨と、私が感じたことの、基本的な所をお伝えするだけで、それが正しいのか、実際に応用するのか、するとしたらどうやって、の辺りの判断は皆さんにお任せ、というスタンスでおります。
いただいたコメントには、これがマネージメント法だとも書かれていますが、そも、この手法には、何かを測ったり、制御したりといった意図は、あまりないようです。それ以前の、何かを始めるにあたっての心づもりの方に、主な効果があるように書かれています。
誰だったか、有名なGPレーサーだったと思いますが、サーキットで早く走ろうと思うのが「モチベーション」、朝、サーキットに行こうと思うのが「デタミネーション」というようなことを言っていましたが。モチベーションをコントロールするのがマネージメントなら、こちらの方は、それ以前の段階、determinationの方に、より近い意味合いかと思われます。
この本の目的は、バイクを操るということが、脳科学、認識論、スポーツ工学的にどう理解されるのかを解説することであり、そのためのノウハウの一端を紹介することにあります。
また、著者は、ライディングスクールのインストラクターのようなこともやっているようで、バイクはこう乗るべき、といったカリキュラムといいますか、方法論を体系的に持っていて、それを人に伝えることを生業にもしています。普段、街中で見かけるライダーのお茶目っぷりを苦々しく眺めていたりもしているようで(笑)、どちらかというと、できないことを埋める、欠点を正す方向の書き方が多いようです。だからといって、まず失敗を正すことが成功につながる式の考え方の人かと捉えると、また違うようなので、注意が要ります。
仰る通り、成功と失敗は直接に表裏にあるものではなく、ある程度は関わりなく、別個にあるものです。しかし、課題というか目標といいますか、「できるようになりたいこと」はできないことの方にある、と考えると、言葉が違うだけで、同じことを言っているようにも思えます。公道で「やりたいこと」というのは、スピードとかタイムなどの即物的なことを据えるとすぐに行き詰まりますから、うまく乗る、かっこよく乗る、安全に、スムーズにといった、抽象的なことの方が多いでしょう。だから、なおさらです。
まあ、スタートの動機がどうあれ、目的が「成功」の方にあるのは同じで、そのためにはどうするか、といった方法論の方に、この後、話が移って行きますので。またご参考になさってください。
実は、私の興味はまた別の所にあって、簡単に言いますと、「血の通った、生きた道具としてのバイクとはどんなものなのか」を、本書が、横からあぶり出してくれるのではないかと、少し期待しながら読んでいるのですが。そちらの方も、何か掴めたら、またまとめたいと思っています。
ブログを拝見しました。
あの水冷を、ご自分でここまでバラして維持管理されるとは。
感服いたしました。
私は、自分で整備したルマンには、怖くて乗れません。(笑)
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失敗と成功は密接に関係するものですが、背反ではありません。
なので成功へは、失敗からスタートするアプローチと、成功からスタートするアプローチがあり、理想的には両方を実践することが望ましいと思います。
その上でハンドルバー左に「失敗カウンター」をつけるという海外のマネージメント手法を導入したとの記事を見て、結構驚いたのですよ。
失敗カウンターも成功カウンターも、似たようなものだと思いました。
自分の目が肥えれば、失敗カウンターは増え、成功カウンターは減るでしょう。
マネージメントの手法なので、どちらのカウンターでも問題解決につながり、またどちらのカウンターでも不十分です。
だからどちらも等価か???
失敗の極限状態は、自走不能なほどのドライバーの怪我や、車両の破損で、カウンターはそれを境にゼロを示し続けます。
最後にはカウンターの増減は、ライダーの意思とは別の物になります。
成功カウンターは漸近的に減り続け、それでいてゼロになることはありません。
もしゼロになったら、公道ライダーであれば「つまらなくなった」訳で、公道バイクに乗ることも無くなります。
楽しく乗っている間は、カウンターがゼロにはなりません。
最後までカウンターの増減は、あくまでライダーの意思によることになります。
・・・・・・・・・・・というような事を考えて、逡巡してしまったという訳です。
公道バイク研究所は、googleで「ドゥカティ」「ST」で検索すると、かなりのページ数をめくると出てきました。
レースの将来のドキュメントが、一番面白かったです。