読書ログ 「スーパーカー誕生」 ― 2014/08/03 04:13
この春の増税前に、駆け込みで買った本だ。
(高額なので迷っていたが、どうせ、いつかは買うだろう本だからこの際・・・という動機。)
スーパーカーと呼ばれるクルマについて、その登場の背景から本質までを、時系列で流れを追っている。
このクルマはこんな感じ。カッコはこうで内装がどうで、速くてすごくて・・・。
普通、インプレというのは、そのクルマを単体で論じるのが常だが。
この著者のことだ。全然違う。
「どういう流れで、誰が、どんなことを考えて作った結果だったのか。」
物が作られた目的や、そこに込められた意図というのは、その物だけを見ていてもわからない。物の周辺の情報は勿論、時と場所をさかのぼって、当時/当地の時代背景や価値観(人々の目がどちらを向いていたか)の見極めが必要、というより肝要になったりする。
当のメーカーはもちろん、時間的に前後するモデルや、ライバルメーカーの動向も横目に見ながら、都合と意図が作り出す、人と技術の流れと、その意味を、時系列に紡いだ物語。
その「紡ぎ」を、徹底してやっている所が、この本の価値だ。
とは言え、一読すれば分かるが、この著者は、1冊にまとまる分量だけを、選んで書いている。多分、言えること、言いたいことの、1~2割しか書いていない。(終章の紹介文にも、同じようなコメントがあるが。)
私も以前、クルマではなくてバイクだが、同じような書き物を 試みたことがあった 。だから、何となく想像ができるのだが、やっぱり、文章にまとめるとなると、一本に連なるものしか書けないので、それ以外のことは、捨てる作業を余儀なくされるものなのだ。本書にも、同じ臭いがする。
しかも、題材がクルマとなれば、事情はより複雑だし、関わってくるプレーヤーも数が多い。スーパーカーが誕生してから現代までという、時間的にも長期間にわたる途方もない課題を、物語としてキッチリまとめて、かつ、読ませる。その結果が、これだけの分量になるのは、むべなるかなだ。700頁を軽く超える。まるで辞書のような厚さの本だ。
著者も自分で書いているが、この物語に深みをもたらしているのは、当事者、つまり、設計者とか、工房の生き残りの爺さんなんかだが、そういった関係者へのインタビューだ。やはり、実際に合って話をするというのは、文献を読んだり、メールをやり取りするのとは、情報の濃さが、桁で違う。
そこへ来て、この著者はもともと、情報が豊富だ。技術的な情報はクドいくらいに聡いし、業界の事情、メーカーのラインナップの裏事情なんかだが、その辺にまで通じている。さらに、実際に触れた(試乗できた)クルマについては、深く深く考え込んで止まない執拗なネチッコさ。インタビューに加えて、そういった情報でもって補完した上で、物語を筋から抽出して、紡いでいる。面白くないわけがないのだ。
本書を読むと、スーパーカーというのが、どういう商品だったのか、よくわかる気がする。
それは、専ら、お金持ちのハートをキュンとさせるため「だけ」に、とてつもないパワーと余分極まりないメカニズムと、エキセントリックな内外装を組み合わせた、一種、異形の機械装置だ。設計者の「いーんだよコレは」的な言い訳を誘うような、あらたかな庇護を内包した機械。そういう実情が、設計者本人の吐露も含めて、繰り返し述べられている。
実際に使い込んだり、ましてや使い切ったりすることは、想定されていない。だから、特に、出初めの頃の配慮が足りない機種であれば尚更なのだが、素人が「つい踏んじゃった」りすると、命取りになりかねない。
無論、「スピード、あるいはタイム」を目指した、ストイックな設定というのもありうるのだが。それは主に、サーキットをねぐらとすべき装置であり、公道には居場所がない。
大昔、私らスーパーカー世代が、ガキの頃に夢見たその姿というのは、エキセントリックさと、凄まじい高性能の両方を、見事に、かつ身近に両立させた宝物であったはずなのだが。実際は違うようだ。カウンタックとBBの「最高速の2km/hの差」なんかは当然として、まともにコーナーを云々するにはナンなことは勿論のこと、GTとしても「どうかしらね」と。それが、どうしてそうなるのか。本書を読めば「そりゃそうだ」となる。
その矛盾、「性能を上げると、単純に、使いようがなくなる」というアンビバレンスは、今でもそのまま残っていて、それを、「両立」と言えば聞こえはいいが、要は「ごまかす」ために、あちこち電制してみたりと。そういう訳だ。
公道で、高性能を楽しむには、レーサーとは違う方法論になるはず、
(公道で乗り物を楽しむには、絶対性能とは違う尺度になるはず、)
その矛盾は、実はバイクの方が如実に身近で、かつ、ダイレクトに死活問題なんだけどね、というのが、私が、キーボードがテカってくるほど、繰り返し書いていることなんだが・・・。
本書に戻って。
そんなわけで、実によく書けている本書なのだが。
危うさもある。
どうも、結論ありきで書かれた雰囲気がある。
著者が、その論の大きなより所としているインタビューだが、それを信じ過ぎているような。
インタビューの相手は、スーパーカーと呼ばれるこの類稀なマシンを、実際に具現化するほどの「伝説の」設計者たちなので、頭もいいし、話もうまい。何十年も前の、設計当時の昔話を淀みなくするし、細かい数値だってスラスラ出てくる。凄い。それはわかる。独創的な人の話と言うのは、どこから聞いても面白いし、惹かれるものだ。
ただ、かつてエンジニアとして働いた経験からすると、こういう人は、その場その場で論理の破綻なく話を作り上げることなど造作もない。頭の回転が速いから、四則計算が速いのと同様、打算をはじく方も速かったりする。スラスラ出てくる数字だって、厳密に合っているのかは、本人しかわからなかったりするから、検証もやりようがない。
怖いのは、わざと相手を騙してやろうと、悪意でもって、そういう話をしているわけでは必ずしもなくて。どころか、自分でも、ちゃっかりとそれを信じちゃったりする場合もあるのでややこしい。(純な人や、夢見がちな人に多かったりするので。かえって始末が悪い。)
以前、こんな話もあった。
子どもの頃の思い出は本物か: 記憶に裏切られるとき
同じような内容は、脳科学関連の本では、繰り返し出てくる。
ほぼ常識らしい。
無論、本書の場合は、著者の方で、それ以外のデータ、図面や、自身の経験値などで、インタビューの内容を検証し直しているから、大ハズレ、ということは無いと思うのだが。何となく、「結論ありき」で話ができているような部分も見受けられて。少々だが、気になった。
例えば、あのカウンタックが、最初期型の当時から、四駆を標榜していたとあるが、本当だろうか。今、図面を見ると、ミッションがグサッと前に向かっていて、いかにも、すぐに四駆化できそうには見える。そこに異存はないのだが、センターデフのメカニズムが影も形もなかった当時から、「それを想定していた」って、ありうるのだろうか。
まあその辺は、程度問題かも知れないし、そもそも、この本が、著者の経験から一本、筋を抜き出した「物語」なのだから、うるさいこと抜きに楽しめればよいのだし、どうしてもうるさいことを言いたければ、自分で検証し直せばいいのだ。(著者も終章でそう言っている。)
この本は「研究」ではない。(研究ならば、自分の個人的経験や感情、感覚などを、一切、完全にネグレクトする所から始めないといけない。)だから、この本はこれで十分、どころか十二分に力作だし、私は存分に楽しめた。
これと同じような深度の物語が、他の著者からも出てくるようになれば、面白いと思うのだが。
いまだに、クルマ業界で結構な金額を稼いでいる国に住んでいるし、実際、私もそのおこぼれに預かっている(納品している)。
クルマって何なのか、考えることはムダではないはずだ。
あっ、そういえば。
「午前零時」の7巻目 が出たんだった。
まだ買ってないな・・・。
ご参考:同じ著者の過去のエントリー
「午前零時の自動車評論」
「自動車小説」
Amazonはこちら
スーパーカー誕生
【追記】
これだけのページ数と値段の本なんだから、もう少し、イラストとか写真、図面!なんかの絵的な情報も、入れ込んで欲しいと思う。これは「午前零時」も同じだが。せっかく出版し直すのに、元記事からほとんどupdateがないなんてサボり過ぎだ。仕事しろ出版界!。
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