読書ログ 福野 礼一郎のクルマ論評2014 ― 2014/11/16 07:35
久しぶりに礼さんの新刊を読んだ。
新刊といっても、例のように、どこぞの雑誌の記事の過去ログ集、しかも図や写真の類は一切なしの「活字オンリー」。このクルマのここのスタイリングがどうのこうのという、ビジュアルに関する文言が虚しく空振る作りだ。ページ数は結構ある(300頁ちょい)が、お値うち感はかなり低め。
記事の方は、いつものエンタメ臭プンプンの、テンポのよい筆運びは影を潜めて、ちょっとだけ、マジメな筆致になっている。
そも、「自分のインプレは当てにならない」ことを前提に書いている。
数値に対するこだわりが減ったように見える。スペックを引きながら、あっちが転んでこっちが滑った、とやる頻度が前ほどではない印象。それよりも、実際にモノに触れて、乗った感じがどうだったか、その感覚の方に重きを置いている。
感じ、感触、感情となると、当然、ぼやける。人の感じ方なんて千差万別(書き手と読者で感じ方は違う)、かつ尺度(知識の量と質、経験値の両方)も異なる。加えて、モノの方も、製造の個体差や、使われ方やメンテナンスの差、時間が経てば、同じ型とてメーカー未公表のマイナーチューンで別物になっていたりもして、いつ何がどう違ってるのか、わかったもんじゃない。
だから、正確を期そうとすると、この時期に、この個体で、このシチュエーションだとこうでしたよ、という言い方になって、何だか、言い訳じみてくる。あの、いつもの礼ちゃんの「バッサリ感」がない。(いや、後書きで、自分をバッサリ切っているが。)
著者の尺度は相変わらずで、ヨーロッパ車、特に高性能ドイツ車の、カッキリきっちり思い通りに走れる感がやっぱり「好き」で、それを見つけたとき、嬉しまぎれに出てきてしまう「礼ちゃん節」は、少しだけ楽しめる。
それでも、全体に「奥歯に物が挟まっている度」は、以前に比べれば、やっぱり高まっているようで。まあ、よく言えば熟成、悪く言えば衰えたような。
BMWの何番とかベンツの何型なんかが良くて、他は要注意(以前だと「スカ」呼ばわりかな)だとか、ゴルフ7の1.2Lが「神」だとか、そんなことが、いろいろ書いてあるのだが。当の読み手の私の方が、もうクルマには興味を失くしていることもあって、ほぼ遠い世界の物語として、楽しく読ませていただいた。
技術的にはいろいろ進歩していて、凄んごいんだな、というのはわかった。
他方、商品としてはファッション化、使い捨て化が進展していて、今この瞬間の輝きだけで、モノの価値を計る度合いは、その後もずいぶん高まったんだな、とも感じた。
私も以前は、真っ赤なイタリア車(クルマね)に乗ったことがあって、これがまたすごく気に入っていて。捨ててからもうずいぶん時間が経った今でも、たまに身体がふと思い出して悶絶するという(←エッチな表現だな)トラウマ持ちだ。だから、筆者がヨーロッパのイイクルマに乗ってヨガったりホエたりするのは、わからんでもないんだが。クルマの維持費に趣味性を持ち込む金銭的余裕をなくしてこのかた、そちらの方は、(半ば意識的に)完全に無視することにしている。
残り少ない金銭的余裕は、二輪たちの維持で食い尽くされ続けているわけで、クルマの本を読んだ感想だというのに、やはり、バイクの話になってしまうのだが。
評価の軸は、この著者と、同じようなものだと思うのだ。
「思い通りに動くもの」
今でも、LeMans 1000に乗るたびに思う。
前後左右上下、もう思い通りに動く。(「上下」は、加/抜重のことね。)
行きたい、または行くべきその時(タイミング)に、行きたい、または生きたい所までキッチリ行ける、そう思える手ごたえ、そこから得られる安心と、自信。
単に「高性能」という意味ではない。行けない、または行くべきでない場合は、ハッキリとそうわかる、逆の意味でも明瞭なのだ。(行けない、または行くべきでない所までも行けそうに思えてしまう単純な「高性能」だと、実際に行った日にゃ大事故だし、そうでなくても、迷いが生じる、その一瞬の「間」が、命取りになることもままある。)
また、今日は行きたくないな、と思うのなら、ゆっくりも走れる。そういう意味での「下方向の自由度」もまた、「如意加減」を語る上では重要な尺度だ。(イケイケ!と煽るだけの、上方向だけの自由度というのは珍しくない。そうではない、全方向の懐の広さのことを言っている。)
これは、あの時代のMoto Guzzi だけが、持っていた乗り味だ。
同じGuzzi でもその前後では異なるし、同世代の機体でも、例えば、スポーティで名高いDucatiでは、また話が違ってくる。
車重が軽いからトラクションがよく効いて、ズバズバと思った動きができるのが売りではあったわけだが。車重が軽いからこそ、接地面の面圧確保に、常に留意し続ける必要があるという、気の抜けない性格でもある。
Ducati でしかできないことがある一方、Ducati ではできないことというのもいっぱいあって、前者を優先して後者を捨て去る(または見ないで過ごす)度量の有無が、ユーザーを「ふるい」にかける仕組みになっていた。公道では、両刃の剣となりうるこの道具は、だからこそ、よく言えば懐が広い人、悪く言えば諦めきれないことを自ら悟った人間にとって、得がたい道具として、機能してきたのだ。
(最近の型は、そうでもない。アレもコレもと全部揃える、ホンダみたいな「儲かるメーカー」になろうとして、古参のユーザーが眉をひそめていたのは、もう十年以上前の話だ。)
コーナーを何km/hで回れるか、その限界性能を最優先にした尖がった性能というのは、それ以外の粗方を、捨て去る結果になる例が多い。(全部を両立させるというのは、一般に、コストも時間もかかる、大変な仕事にならざるを得ない。市場にあるほとんどのバイクは、そこまでは真面目に作られてはいない。)
公道では、いつ、どこで、何が、どれだけ必要になるのか。
一口には言えない。
「わからない」とも言える。
だからこそ、その「全方位に、いつでも如意に動ける」意味での性能というのは、最優先のニュアンスであるはずなのだ。
「このエンジンで、サーキットをなるべく速く」
そういう制限の元では、例えば、Moto2のようなアライメントも「有り」だろうし、一つの「解」として光って見える。そういうこともあるだろう。
そんな「レースで見たまま」を手に入れてほくそ笑んでいるだけなら、まだ罪がないのかもしれないが。
そのデチューン版、ハンドルを高くして、エンジンを低速セッティングにして、コストダウンも含めて動性能を丸めてみました、そんな例を、「マジメな公道バイク」と勘違いして買わざるを得ない(買わせようと仕向ける)例が、いまだに多い。どころか、かえって増えているようにも感じる。
「不真面目だ」
裏返すと、「ホンモノじゃない」。
私がホンモノと言っているのは、 LM1000のエッセンス だ。
そのエッセンスを、「これですよ」と純な形で抽出してみせる描写力は私にはないし、たとえ皆様がLM1000に乗ったとて、私と同じ事をお感じ頂けるとも限らないので。何とも伝わりにくいとは思うのだが。
「前後左右上下、思い通りに動かせる」感じ、それに伴う心地よいリズム(波長)と緊張感。
これに関して、LM1000に上回るものに、今に至るまで、私は触れることができないでいる。
確かに、当のMoto Guzzi でさえ、これを、これだけの濃度で現出できたのは、数あるラインナップの中でもLM1000が唯一だと思うし(LM IIIは「良さ」のニュアンスが違う)、その後に続く後輩たちは、スペックとか、エコ性能とか、生産技術とか、いろんな意味で「進化」はしているのだと思うのだが、この乗り味のエッセンスは、はやり、薄れて行く一方のようだ 。
つまり、当のMoto Guzzi ですら、これが何だったのか、具体的にどこをどうすれば実現できるものなのか、わかっていなかった(後輩に伝えられなかった)証左であると言える。
いや、私が感じていることのほとんどが、ただの幻想か錯覚だろうと、そういう言い方もできるのだろう。
もう一つある。
耐久性だ。
電子制御は、長持ちしない。
正確に言うと、長持ちかどうかに、留意していない。
物は、いずれ壊れる。
当たり前だ。
ただ、これだけの値段を出して、ウンチクやコストやリスクなんかを背負って得られる価値というのが、たった一代きりで終わりというのは、はやり、どこかやるせない。
片やLM1000は、「ポイントを磨いてキャブを見れば、何とか動いてしまう」という世界。消耗パーツの供給と、基本的な整備の知識と腕でもって、何度でも蘇生が可能である。
多分、私のLM1000の寿命は、私個人の寿命より、遥かに長い。
状況さえ許せば、私の孫子の代でも乗れるだろう。
そういう世界に棲む私の感覚としては、何百万も出して買うクルマが「基本、使い捨て」であることと、それがさも当たり前であるかのような前提で、クルマの良し悪しが論じられているということに、抜きがたい違和感を感じる。
結局は、メーカーのやり方、つまり
進歩だ何だと言いつのるのが、要は、頻繁にリピートしていただくため。
「食うため」
そのやり方に、寄り添っているだけ。
その辺の、一般ライターと同じ。
「宣伝」
この著者は、それを、わかっていて、やっている。
(と、後書きに自分で書いている。)
罪なのか、衰えなのか、余裕なのか、諦めなのか。
「飽きた」ということか。
片や、私の方といえば。
「うん、コレがいいや」と、納得ずくで楽しく乗れる機体が、長く手元にあり続けているというのは、それだけで、十二分に幸せなことではあるのだが。
新しくて、もっといいもの、それを感じる感性をなくしてしまった、衰えた時代遅れである証拠、かもしれないわけで。(そうならないよう、努力はしているつもりだが。)
ああ、妙な所に来ちまったなあ、しかも動けないし、と。
また、感じた。
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福野 礼一郎のクルマ論評2014
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