読書ログ 自閉というぼくの世界 ― 2015/07/11 06:24
自閉症の少年による詩に、絵本も手がける作家さんが絵をつけた「絵本」だ。でも子供向けではなく、たぶん、大人の読者を想定している。
自閉というのは、その字面の通り、他人との意思疎通を難しくする精神的な傾向のことを言う。視線を逆にすれば、自閉の人々が何をどう感じているのか、その実体を知るのは難しいということになる。
本書(の著者)は、自閉の当事者が、その開示困難な情報の一端を表した珍しい例として、有名らしい。
私事だが、知人に同じ類の子供がいて、一瞬だが、うちにも遊びに来たこともあって。ほんの少しだが、実際に関わった経験がある。
何だろうか、精神構造というか、ものの感じ方、考える筋道が、一般大多数のそれとは確かに違うのだが。全く別種とか、デタラメ(ランダム)ということでは無くて、それなりの道筋を辿っている。そして、その道筋が、何となく、自分にも覚えがある、つまり、、自分の中にもあるもののように思われた。
彼らの見せる行動様式の端々が、我々全員が、ひそかに、あるいは根源に近いところに持っている、ある種の感性を端的に表しているように感じられたのだ。
普段、我々はその根源的な何かを、ほとんど全く使っていない。それを使わずに済むように、その上を別種の(より新しい種類の)感性が覆っていて、普段はそっちの方が活性化している。脳の進化による機能のおかげか、後天的な教育のせいなのか知らないが、そういう構造になっているように感じた。
その、「上に乗っかる別種の感性」がない、または働かない、それを自閉と呼んでいるのか・・・
だから、彼らの行動に「根源に眠る感性」の一端を垣間見た時に、我々は、「純粋だ」とか「豊かだ」などと感動したり、その優れた能力に驚嘆したりするのではないか・・・
この、私の拙い仮説を確かめるために、本書を手に取ったわけではない。
ほとんど、興味本位だ。
それに、本書の記述は、私の仮説にはほとんど関連がなかった。
本書の目的は、むしろ、あとがきにあるような、サポートを行う側に居る健常者(大人)が訴えたいこと(またはその「都合」)におもねることにあるようにも見えて、それが、本書を真正面から読み解くことを妨げているように思った。
ありていに言うと、「彼の本当の感性は、こんなものではないはずだ」と。
きっと、彼らは、狭苦しい程に密度を上げたがる、我々一般が作る人間関係の被害者なのだろう。
人間は、もともと、もっと広々とした感性を持っているのに、我々は、小さなこと、狭いこと、奥行きがないことにこだわり、かつ、絶え間なく移り変わり続けていて、彼らは、それにつきあうことに、疲弊している。
普段、自分が何を考えているのか、思い出してみれば分かるだろう。目の前のものを、素直に見るということを、ろくすっぽしないのだ。上っ面だけ見て、知っている、と片付けるのが大概で、見た目やレッテル、多数決で決まる都合なんかの、便利に共有できるものを選び出し、自分の周りについたての様に並べて、隙間は無関心というボンドで埋めて、その中で暮らしている。
(いい例がネットだ。openだ自由だと言いながら、皆して妙な所に凝り固まって、狭く深くにもぐりこんでいる。)
閉じこもっているのは、むしろ、我々の方なのだろう。
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自閉というぼくの世界
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