依存症と回復、そして資本主義(新書) ― 2022/10/02 04:40
私も米国のテレビドラマの辺りで見かけたのだが、薬物やアルコールなど、同じ依存症を持つメンバーが集まって経験を語り合う類の、自己回復プログラムというのがある。
これが、日本にも普及し始めていて、既に普及している他のサポートプログラム、精神科医や、公的サポート、宗教的な背景による救済(キリスト教会系など)と並行し、かつ相補的な関係を構築しつつあるらしい。
そんな、ぼんやりした知識はあったのだが、本書は、その回復プログラムの内容と、日本国内における普及の実情を説明した本だ。
題名には「資本主義云々」とあるが、数行の付け足しがあるだけで、内容としてはほぼゼロだ。そこは著者も承知していて、後書きで謝ったりしている。(笑)
内容は、上述の自己回復プログラムがどんなものであるのか、その理念を発祥国である米国のオリジナルに求めて詳細を解説し、それが時と場所を経たこの日本で、どんな人々が、どのように運営していて、その他の各種のサポートどういった連携をしているのかといった、いわば回復サポートのネットワーク全体を展望するにまで至っている。
日本の場合、依存回復の方法論と言えば、例えばアル中などを想起してもらえばわかると思うのだが、本人の決意と自助努力による回復、といった「根性論」が骨子になっている。
ヤクをやった芸能人はつるし上げる。悪いと分かって手を出した意志の弱いお前が悪い。恥じて自覚して自助努力で這い上がって来い。そう上から目線で罵るのが正義だし、蹴落としていい(気分がいいし)と、ワイドショーを凝視しているいる視聴者の頭の中は、そんなオハナシになっている。
しかし実情は全く違う、むしろ逆だ、と著者は言う。依存症の当事者は、自らの意思でそうなったわけでは決してない。そこに追い込んだ外部要因が必ずある。確かに彼らは弱かったかもしれない。しかし、彼らを弱くした要因も、また別にあるはずだ。
つまり、ごく単純に言ってしまえば、彼らは「成り行き」でそうなった。その「成り行き」の正体を暴き、取り除いたり、改善しない限り、依存症は回復しない。結局、また同じ状態に戻ってしまう。
原因は外部にある。
その自覚から始める。
外部要因なので、コントロール可能とは限らない。だから時には逃げてもいいし、助けてもらってもいい。
ただ、原因の姿を自覚していないと、どこへ向かって逃げればいいのか、だれに助けてもらえるのか、見当がつかない。
その原因の自覚に最も役に立つのが、共感だ。
だから、これら回復プログラムは、同じ依存症経験者によって運営されている。
「人に助けてもらうことで、依存症から脱却できた」
その経験が、同じ依存症患者を助けるモチベーションになり、同時に、彼自身を支える基柱になる。
助けられる側が、救いの手を受け入れるのは、そこに共感することが第一歩になる。
入所者は、グループミーティングに通い、各々が順番に、ただ話す。反論や感想は不要である。聞く方も、ただ聞くだけだ。当事者が、自分について語ることで、次第に(時間はかかるが)頭の中が整理され、自らの状況に冷静になれる。
同じ境遇の他人がこんなにいる。脱却できた人もいるんだ。それが現実だ、と本質が見えてくる。
そうやって、自分の回復が、現実味を帯びて来る。
彼ら彼女らに依存症をもたらしたのは、本来あるべき人の姿、その自然体の形と、環境が求める理想像が異なっているからだ。偽りの自分を強いられる、そのストレスすら悪いことだと思わされている。その、出口がない循環の中で、追い込まれる一方なのだ。
(「本来の姿と強いられる姿の違い」の精神科的な捉え方は、以前取り上げた別の本、 「普通がいい」という病 によく似ている。)
依存症患者のマインドを歪にしている環境要因の方だが、その自己防衛は完璧だ。彼らを弱者として切り分けて、全ての責任をおっ被せて済ますことで完結する、閉じた構造になっている。
回復プログラムは、患者本人が、その環境要因を正しく捉えることを趣旨としている。
一般的な公的、精神科医的なアプローチとは別のレスキュー手法なので、やりようによっては、相補的に有用にもなりうる。それに気づいた精神科医の中には、その相補メリットを高めようと活動している方も多いらしい。本書には、その実例たるインタビューも多数掲載されていて、その視線の多彩さが、説得力を高めつつ、本書の内容に厚みをもたらしている。
この回復プログラムは万能ではない。そこでの共感とは、裏返せば、自分が弱者であることを認めることでもある。そこに、どうしても納得できない、(いわば強がり依存の)依存症患者もいるだろうし、そもそもの共感能力に乏しい場合も少なくない(むしろ現今では増えている?)かも知れない。
依存症患者を追い込んだ環境要因は、千差万別だ。だから、回復の道のりも各個独自のものになる。その都度ワンオフになるわけで、複雑だし、時間も、手間もかかる。だが、共感や寛容を強いることが、別のストレスになっては元も子もない。細かなケアが欠かせない。
それを、まるっと一つの枠組みにまとめようというのだから、簡単な話ではない。運用資金はいつも問題だ(その多寡のみならず、スポンサーの意向に理念を侵食される可能性もある)。精神論を含むので、宗教染みて見えてしまうこともある。そもそもが欧米由来で、キリスト教的な価値観も含むので、この東洋の小国に応用するには、多少の方法論の転換が必要な場合もある。時々に応じての制度改変&メンテナンスも、無論のこと必要だ。
本書は、依存症患者の特異性を否定しているが、私もそこには同意する。誰もが何かしらに依存している(私もバイクや読書の依存症)。それが問題にならないのは、依存の先が、世間的にあまり問題視されずに済んでいてラッキー、というだけの話だ。ちょっとしたきっかけで、依存先は、簡単に変わるだろう。そこへ至る「魔の手」はこれまた、引きも切らない。つまり、我々は、いつ、これら回復プログラムにお世話になるかもわからない。
人々に依存を強いているそもそもの原因が「世間」なのだとしたら、そちらの方を改善しないと、この病の根治には至らない。その点で、この回復プログラムは、いわば対処療法でしかない。
振り返って、その「世間」の様相の方を眺めてみれば、何かを強いる側と、強いられる側が、互いに「相手に寛容に」と言い合っていいて、その度合いは、どうも、悪化の一途に見える。余裕をなくして、寛容の度合いは減る一方だ。その悪循環のスパイラルは、加速すらしているように見える。
そちら側の、原因の改善の方が本筋ではあるはずなのだが、それには、また全然、別の方法論が必要だろうし、膨大なエネルギーと、さらに長い時間がかかるのだろう。
しかし何よりも、そこへ取り組もうという意思が薄れ、他人のせいにして済まそうとする逃げの思考が、やはり問題なのだと思うし、それが「文化」なのだとしたら、もう絶望しかないのだろうか。
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