◆ (単行本) 封じ込めの地政学-冷戦の戦略構想 ― 2023/05/04 16:43
表題の「封じ込め」とは、米ソ冷戦の成立に大きく影響した概念で、戦後すぐの頃に、米国の外交官、G・ケナンにより提唱された。
本書は、各国政府の公式文書を広範に紐解くことで、1940~50年代の東西冷戦の成立に至る、米国の政策と戦略の変遷の裏側を描いている。そこに「封じ込め」がどう影響し、米国首脳部の考え方を変え、またはまとめたのか、その流れを検めている。そのプロセスで、「封じ込め」の考え方自体も同時並行して変化しており、それがどういった変遷を経たのかもまとめている。
個人的に、外交にはずっと興味があって、ケナンの著書も、かなり高価なものまで読んでいる。しかし、世の中的には、冷戦はもうオワコン扱いで、新たな文献を見かけることはなくなっていた。なので、新刊コーナーで本書を見かけた時は、少々驚いた。
昨今、一度は終わったはずの「冷戦」という言葉が、中国を相手にまた使われ始めていることに興味を抱いていた。
旧ソ連を相手にした「封じ込め」が復活して、中国に適用されうるものなのか、はたまた別の論理立てが行われるものなのか、だとしたら、それはどんな理論か、興味があった。
本書が、「封じ込めの復活」の意味で参考にならないかと、期待したのだが。本書の守備範囲は旧・東西冷戦までで、そちらは本当に参考程度に留まった。
本書の筋縦は、ケナンの当時がメイン、というか、ケナンをほぼ主人公扱いで展開している。それだけに、ケナンの論理を、個人的に懐かしく読みながら、思い出し、かつ、いろいろとインスパイアされた。
以下は、その一部の文字起こしである。本書の内容を正確に反映したものではないことを、あらかじめお断りしておく。
今「米ソ冷戦」を思い出すと、核兵器の軍拡競争に代表される行き過ぎた対立を想起させることもあり、「封じ込め」自体もそのようなニュアンスで語られることもあるようだが。初めにケナンが提唱したのは、もっと広範で、奥深い概念だった。
その出発点であり目的は「戦争回避」だ。平和による幸福の追求。平和的な繁栄という意味で、平たく言えば、自国(米国)と同盟国の国益、とできるだろう。
次の特色は「理解」である。相対する勢力(共産主義国家)の存在を認める。その存在を前提条件として設定し、特性を理解した上で、尊重する。無暗に敵視したり、排除を意図したりはしない。
対ソ戦略という文脈では、ソ連という国がどういう性質なのかを十分に理解し、それを尊重した上で、その人々と相対して「平和に暮らすには、こうするのが最適だろう」。そういう文脈で話を始め、かつ進める。
分かり合ったり、融合したりが当面にしてもムリなのであれば、お互いにわきまえつつ暮らすしかないわけで、自分も当然そうするし、相手にもそうするよう促す。場合によっては、互いにそうせざるを得ないような状況、具体的には「均衡」を作り出す。そのための方法を模索し、具体的に構築していく。
「武力が真っ先に来るべきでない。それは最後だ。」そうでないと、「封じ込め」ではなく「ぶっ潰し」理論になってしまう。決してお花畑的な理想論ではない、本来の意味での現実主義に立脚した視点ゆえの思考だ。
ケナンの封じ込め理論は、そういった理念に立脚しつつ、その実現のための手段も含めたフレームワークとして提供された、実に優れた戦略だった。だからこそ、その提唱の当時に説得力を持ち、浸透し、活用された。(戦後すぐの情報流通が限られる状況で、ケナン自身が、あらゆる組織に足で説明して回り、浸透と応用の両面で、八面六臂で働いた故でもあるのだが。)
とはいえ、ソ連(ロシア)という国は、歴史的、文化的に、他国と共有する部分が少ない。ぶっちゃけ、変わっていて理解が難しい人たちだ。ケナンは、ソ連担当の外交官という専門家だったので、彼らを深く理解することが可能だったのだが、そうではない人々、市井の一般人は元より、米国の要職を占める人達にとっても、それは難事だった。実際に政策の策定に携わる政府の要人ともなれば、組織を背負うプレッシャーもあるし、ポジション故の責任もある。たとえ理解できたとて、それをそのまま反映するのにも困難が伴う。
いくら優れた要人とて、全てを完ぺきにこなせるわけではない。まして、その彼らが扱うのは、相手国のみならず、全世界を絶滅させかねない、核時代の戦略だ。ブレもあれば変更もあるし、誰もが未経験の最先端だけに、米国特有の特色が、より濃く出る。
米国は、伝統的には孤立主義の国だった。他国にはなるべく関わらない。そういう内向きの国だった。その変化の扉をこじ開けたのは、真珠湾だった。二次大戦を境に、世界の覇権として突出した米国は、否応なしにその役割に駆られるようになる。
「米国は変わった」のだが、その変わり方は、あまり褒められたものではなかったように、個人的には思っている。「変わった」結果が、敵国からのシグナルに過剰に反応し、マッチョ志向で対処しようとする、お馴染みのあの米国だったからだ。(私は個人的に、この傾向を「チキンな米国」と呼んでいる。)
物事を白黒に二元化し、善悪に直結する単純思考。
(もっとも、この時代は「白黒」ではなく、「赤か、それ以外か」だったが。)
まして、勧善懲悪、悪は見つけ次第、暴力で叩きのめしてよい(安心したい)というチキン志向だから、こと冷戦に関して、原水爆の増産に代表される軍拡競争マチズムへと落ち込んでしまったのは、皆様ご存じの通りだ。
二次大戦の開戦の当初、米国にとって、ロシア~ソ連は、組すべき相手だった。実際、終戦まではその意識で来ていたのだが、戦後になって、対立軸が顕在化した。当時の世界は、何だかんだで西欧を中心に回っていたし、二次大戦後の戦後復興も、ドイツの処理が焦点になっていた。「負けたドイツをどう分け合うか」、その延長で「ヨーロッパのどこに線を引くか」が焦点になっていた。だから「封じ込め」も、地政学的に、主にヨーロッパを想定していた。
しかし、その後、ヨーロッパの戦後処理は、後にNATOとして結実する軍事同盟に向かって進み始める。本来、戦争リスクの回避を旨としていた「封じ込め」の理念から逸脱し、軍事に特化した形に傾斜して行った。ケナンは、NATOの設立には反対だったようだが、当時は日本や中東への対応に忙殺されていて、こちらに十分に関与できなかったことが一因だった、と本書にある。
今現在の結果論として、当時のケナンも懸念した通り、NATOは「出過ぎ」のプレッシャーをソ連に与え続け、それは、ウクライナ危機にまで影響し続けることになった。(それはつまり、ケナンのロシア理解が、またもや正鵠を射ていたことの裏返しでもある。)
他方、他の地域、特に東南~極東アジアは、全く様相が違っていた。
東南アジアの国々は、戦勝国からは遠く、弱く、こま切れで、その関係は混とんとしていた。大国からすれば、面倒くさいだけで、大してメリットのない地域だった。
主要戦勝国にとっては重要度が低い地球の裏側だったこともあり、戦後処理については、ほぼ放置プレイだった。比較的にしても利害がはっきりしていたのは、東洋唯一の強国で敗戦国の日本だけで、それも、米国が、自由主義国陣営のアジア橋頭保として使いたい意向が明確化していただけだった。
中国などは、面積も人口も大きすぎて、民主化も難しく(独裁制が妥当?)、米国の手に負えない、と目されていた。工業力も低くて経済的に使い出もなかったし、たとえ共産化してしまっても影響は小さかろうと、高を括られていた。今考えると奇妙なことだが、中国は、初めから「封じ込め」」の範疇外だった。
東南アジアの小国には、イギリス、フランス、オランダといった宗主国がまだ居たが、これら戦勝国とて、戦後すぐの頃は、本国の立て直しの方が優先だった。結局、この時期、こちらもほぼ放置された。
といった内情はソ連も同じで、大陸の東南端にはほぼ無関心だった。戦勝国として赤軍が占拠した朝鮮半島に仮置きする形で、中国に少しだけ先んじて成立した北朝鮮とて、決して友好国などではなく、ただの下っ端の衛星国の一つだった。
戦中まで、東南アジアには、日本の軍事パワーが実質的な抑えとして効いていた。終戦で、その力が一気に抜けた一方、他の覇権が取って代わることがなかったから、パワーの真空状態が現出した。
それが放置されたのだから、戦後のアジアの情勢は、ほぼ「成り行き」で決まった。中国内戦では共産党が勝ってしまい、世界が認めた中華民国に代わって、ちゃっかり居座った。朝鮮は南北に分裂して、彼ららしい暴力的ないがみ合いに至った。インドネシアなど小国が独立し、ベトナムは共産化した。
この当時、ケナンは既に要職を退きつつあったそうだが、その積極的な関与もあり、政策上は戦争リスクの回避という基本路線は維持された。しかし、米国の対応は「素早い後手後手」に終始し、情勢に大きく左右された。
その端緒が、朝鮮戦争だった。当初、米国は、ソ連による軍事的な関与はありえないと高を括っていた。しかし、共産党中国が成立し、東アジアの「分担」をソ連に進言し承認された(ソ連が中国に東南アジアの共産化を丸投げした)ことで、状況が変わった。
当初、全面対決のリスクを恐れて腰が引けていた米国だったが、中国軍の介入で劣勢に立たされたのは、さすがに衝撃だったようだ。そこで米国が感じたプレッシャーは、「チキン化」のトリガーを、直接引いた。
直接介入に追い込まれた米国が学んだのは、こんな極東の小国同士の諍いにさえ、結構な手間がかかること。根本解決は、相当に困難なこと。コストに比べてメリットが少ない。そんな米国にとって、事前の恫喝と、事後の処理に同時に使える「強力な軍事力」は、一番手っ取り早くて妥当な解として、光り始めていた。
以降、冷戦は、「封じ込め」が元来持っていた包括的な理念を離れ、軍事力への依拠という色合いを強めながら進んで行くことになる。
この朝鮮戦争の帰結と似たような事例は、アジア各所に残された。「均衡」という名のナアナアで残された多数の瑕疵が、時限爆弾のように各所に埋められた。例えば、尖閣もその一つだ。今の中国は、それを悪用し、国益に転化すべく、一つ一つほじくり返しては突つき回っている、という訳だ。
「封じ込め」は、東南アジアは対象外だったし、当然のこと機能もしなかった。端的に、「失敗した」のだ。
唯一、地政学的に、大陸から太平洋に進出する際のストッパーといえる位置にある日本と台湾のみを、現にそう使うべく、米国は画策し続けた。その残渣が、今さらのように浮上して、政策上のオプションとして、我々の眼前に浮遊している、という訳だ。
振り返れば、失敗は他にもいっぱいあった。ベトナムは痛かったし、キューバは危うかった。今回は取り上げないが、中東での失敗は9.11となって結実し、米国本土に直接の被害をもたらすに至った。真珠湾以来の本土攻撃だ。痛みも一入だ。
そんなこんなで、70余年が経った。
今、「新冷戦」を唱える米中と、ウクライナ戦争でNATOの押し戻しを主張するロシアを横目に、戦後米国の対外政策の一翼を担った「封じ込め」をおさらいしてみるのは、意味があったと思う。
本当に個人的な見解なのだが、今の米中関係に「冷戦」という単語を当てることには、私は違和感を感じている。あの時のような、考え抜かれた理念や思考が感じられないからだ。
今の米中関係は、かつての米ソの当時とはかなり違う。経済的な結びつきは強く、ビジネスは無論、留学から観光まで人の行き来が盛んだし、情報も流通している。お互いの専門家を国内に抱えていて、相互理解も進んでいる。それが功を奏しすぎて、中国が米国を理解したと踏んだ結果、「行ける」と判断し、化けの皮を脱いだから、覇権争いの体を成すようになった、そんな経緯に見えている。
自由主義 vs 共産主義のイデオロギー対決という側面は、確かにある。自由でなければ西洋式の経済的な繁栄はありえない。しかし、中国のような、面積と人口(と国民気性)を民主主義で納めることの困難さを、米国は理解しているようだ。
米国にとって、自由主義の橋頭保としての台湾は大切だ。かといって、死守するほど重要かは微妙そうだ。中国も同様に、台湾を武力で併合することのリスクは認識している。
プーチンのウクライナのように、狂気じみた怨嗟が魔を差すリスクは認識せざるを得ないが、中国がそこまでバカか、「わかっててもやる」のかは、時の運だ。
中米の「新冷戦」は、このまま、経済戦争の範疇で終始してくれれば、と願わずにはおれない。
もっとも、これは中国理解が覚束ない私個人の希望的な楽観視であって、当たりはしないだろう。
私の思考などはケナンの足元にも及ばないが、その現実主義の視線は、今一度思い出したい。
それは、現在の誤用である「今こうだからいいんだ」という意味ではなく、「可能性と限界の両方を常に見据えつつ、目的に向かい歩を進める姿勢」という本来の意味合いだ。
ケナンの時代から、70余年。
2世代を超える時間が経っている。
世代を経ても、過去の優れた知性は、誤解なく受け継ぎたいものだが。その難しさも、改めて感じた。
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封じ込めの地政学-冷戦の戦略構想 (中公選書 136) 単行本 – 2023/3/8
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