◆ (単行本) 悪意の科学 ― 2023/10/11 05:47
なかなかキャッチーナ題名だ。
やはりと言うか、近場の図書館では、予約が長蛇の列だった。
特にWebなどのフィールドで、他人の悪意(とそのレベル上げ)を日々意識させられている向きは少なくないだろう。
まさに、そこにアピールしたかのような題名。
副題として、表紙に
「意地悪な行動はなぜ進化し社会を動かしているのか?」
とあるが、本書の内容が、端的に要約されている。
ちなみに、原題は、
Spite: and the Upside of Your Dark Side
spite を辞書で引くと、悪意や恨み、と出て来るので、訳としては、
悪意:あなたの暗黒面の利点
といった辺りか。
本書が、悪意の「利点」へ言及した内容であることの示唆と取れる。
実際は、どちらかと言うと学術的なアスペクトで書かれた書籍で、同様の書名でありがちな、差別やヘイト辺りにフォーカスした、パヨ系の書物ではない。
本書で扱う「悪意」だが、少々注意が必要だ。
本書の「悪意」は、他人と自分の損得の組み合わせの容態の一つとして定義されている。
他人に得であり、自分にも得な行為(協力)
他人に得であり、自分には得な行為(利己)
他人に損であり、自分には損な行為(利他)
他人に損であり、自分にも損な行為(悪意) ←本書における悪意の定義
日本語的には、これには少々違和感がある。
我々が「悪意」と言う時、単純に「他人を貶める、損をさせる」イメージで、自分が損をするか(コスとをかけるか)は、普通は考慮していないと思う。
ただ、本書では「コストをかけるか」は、一貫して重要な指針を成している。
なので、その辺りは前提として、想定しながら読んでやる必要がある。
この差だが、たぶん、言語に因っている。
原著での「spite」と、日本語の「悪意」の、ニュアンスに差がある、ということなのだろう。
本書は、心理学から社会科学、脳科学や遺伝に係わる研究論文、果ては文学作品に至るまで、膨大な資料を題材として引き、著者の見識を交えながら「悪意」を分類し、解釈し、再構成することで、その何たるかの像を結ぶ。そういう作りになっている。
著者は、アメリカ人だ。引かれる文献も西欧由来がほとんどなので、言葉の定義にしても、必然的に原語のものを踏襲する。
また、本書は、心理学の准教授による半・学術的な考察でもあるので、言葉の意味する所も、曖昧さを避け、なるべき厳密を期しておきたいのは当然だ。
日本語で「悪意」と言った場合、副題にある「意地悪」レベルも含むように、日本語的な曖昧さは避けられないので、あらかじめ定義を明確化することは、妥当な措置と思える。
さて。
「たとえ自分が損をしても、相手に害を及ぼす。」
そこまで思い詰めた行動が、そんなにあるものか?とも思うのだが。
本書には、その実例が、これでもかと出てくる。
著者の興味の一つは、悪意がなぜ、今も残っているかだ。
悪意は、上述の定義の通り、自他共に害を及ぼすものなので、端的に、誰のためにもならない。
群れを全滅させかねないそれは、敗者の論理のはずなのだ。
それが、勝者の歴史であるはずの進化の過程で淘汰されずに、まだ残っているのはなぜか。
進化論の解釈に従うと、進化の過程を経て今に残る我々は、勝者の子孫である(はずだ)。
(と言っても、その時々の環境に適応できる素質を「たまたま」持っていた、というだけなのだが。)
勝者の子孫なので、勝者ならしめた素質を受け継いでおり、それを優先的に使うし、そうすることを半ば運命的に強いられてもいる。
しかし、環境の方は勝手に変わる。変わった後の環境で、勝者の素質が役に立つとは限らない。
その乖離が明確化した時、勝者は滅ぶ。
そして往々にして、墜ちる勝者は、道連れを欲する。
別の観点から、平等主義の裏返しのコンテキストによる解釈も示されている。
群れの成果は、ある程度は確率で決まるものなので、結果は平等に分配するのが、群れの維持としては妥当だ。
故に、平等を超えて不当に多くの(と思しき)成果を望む者は、罰せられる。
罰すべきだ、罰していい、そういう力が、群れの知恵として備わっている。
そういう仕組み論である。
そんな感じで、悪意の背景を成す思想、それを正当化したり抜け道となる概念、発動のトリガー等々、実に多様なアスペクトから、悪意の理解が試みられている。
正義、罪、罰という概念
怒りという感情
共感力の欠如や不足
共感しない相手の選別
欲望
不平等、既得権益、エリート
嫉妬
善人ぶるものへの蔑視
悪意による共感と、そのネットワーク化
シャーテンフロイデ
支配欲
理性と自由
正義という概念は、罰を正当化する。その執行には、往々にして大きな代償を伴うが、脳科学的に中毒性が見られるほど魅力的かつ依存的であるらしい。
怒りという感情で自分に火が付くと、人にも火をつける行為が、即時かつ一時的な判断力の低下・短絡の結果として現れる。心理学的には、それが理性の裏返しである場合もあるそうで、これまたややこしい。
共感力の欠如や不足は、先・後天的の両パターンがある。(確かに、生まれつきの共感力の多寡は散見される。)また、共感をすべき相手かどうかのフィルタリングは、どの文化圏でも普通に見られる。例えば、人種を含むあらゆる差別や、異教徒迫害などがその実例であり、と言うことはつまり、宗教までが「悪意」の規範を成す場合がある。
無論、これらの全てが、「悪意」に直接、影響しているわけではない。タイプ分けは可能だし、本書はその作業に膨大な手間を割いている。様々な角度から光を当てて、ディティールも漏らさず描くべく、緻密な(≒しつこい、くどい)作業をしているのだが、それが事の輪郭を明確化するよりも、複雑化が勝ることにより、かえってボヤけてしまうのは、この手の書物でありがちな帰結だ。
人間の考え方なんて、「こうすべき」という基礎・基盤と、「実際にやること」の間には差があるし、その差分にも、いちいち理由がある。
その入り組み方は、人間というものをよく表しているので、単純に人間ドラマ的に読めば面白いし、「人間がよく書けているなあ」のような解釈も可能だ。
それが本書の価値でもあるのだが、肝心なところで釈然としない印象が、最後に残ってしまう。
悪意を把握し、対処する。
本書には、その手がかりを期待するだろうと思う。
ただ、その「対処」は、一向に明らかにならない。
終章に近く、民主主義の効能に絡んで、少々光が差す様が描かれる程度に留まる。(構成員のリテラシーの向上に期待、のような帰結。そんなのは誰でも書けるだろう。)
つまり、本書は「著者が考えた悪意の解説本」と言えると思う。
個人的に、本書の内容は、人間の認識の相対性で説明できると考える。
人間は、絶対評価が苦手だ。
特に、自分自身の絶対評価ができない。
どうしても、相対評価に陥ってしまい、かつ、それに依存する。
例えば、身長が何センチ、給料の額面よりも、自分より背が高い奴、自分より貰っているヤツが気になる。
比較対象は、兄弟やクラスメート、同僚、同期など具体的な場合もあれ、平均点などの統計値や、評判、噂、世論など、ただの概念の場合も多い。
たとえ絶対値が足りていても、差が大きいと許せないし、それを解消しようと画策する。
よく言えば平等主義が浸透している。
悪く言えば、我々はひがみ根性で動いている。
自分を客観評価できて、それに即して納得して動けるのであれば、悪意など必要なくなる。
比較対象が「概念」というのも曲者だ。概念は、実物を伴わない、ただの脳内イメージだ。実際には無いものと比較しても、埒が明かない。
概念を駆使し、かつ他人と共有できるのは、言語と共感力を持つ人間だけだ。だから、悪意も人間だけで、動物には無い。
また、概念は移ろう。だから、その量や有り方は、地域や人種、文化で異なる。認識が移ろうので、その発露の一端である悪意も、移ろって当然だ。
本書だが、前回取り上げた 欲望を取り上げた本 に比較して、訳はこなれていて読みやすい。
たぶんこれは、原文がドラマチックに、面白おかしさにも考慮して書かれている故だろう。
ただ、後半になると、論理は入り組む一方だし、引用も繰り返されるしで(前々章で定義したコレと比較するとああだこうだ、のような)、ややこしさは増加の一途、かつ、一向に整理されてスッキリしては来ないので、読むのがだんだん辛くなる。端的に、やや膨らまし過ぎの印象もあり、読後の爽快感は期待薄だ。
ただ、純粋に心理学的に悪意を考えるというアプローチはあまり見られないので、知的な興味は引かれるし、知識としても有用と思う。
本書の読者は、そういう人なのだろうと思う。
Amazonはこちら
悪意の科学: 意地悪な行動はなぜ進化し社会を動かしているのか? 単行本 – 2023/1/24
やはりと言うか、近場の図書館では、予約が長蛇の列だった。
特にWebなどのフィールドで、他人の悪意(とそのレベル上げ)を日々意識させられている向きは少なくないだろう。
まさに、そこにアピールしたかのような題名。
副題として、表紙に
「意地悪な行動はなぜ進化し社会を動かしているのか?」
とあるが、本書の内容が、端的に要約されている。
ちなみに、原題は、
Spite: and the Upside of Your Dark Side
spite を辞書で引くと、悪意や恨み、と出て来るので、訳としては、
悪意:あなたの暗黒面の利点
といった辺りか。
本書が、悪意の「利点」へ言及した内容であることの示唆と取れる。
実際は、どちらかと言うと学術的なアスペクトで書かれた書籍で、同様の書名でありがちな、差別やヘイト辺りにフォーカスした、パヨ系の書物ではない。
本書で扱う「悪意」だが、少々注意が必要だ。
本書の「悪意」は、他人と自分の損得の組み合わせの容態の一つとして定義されている。
他人に得であり、自分にも得な行為(協力)
他人に得であり、自分には得な行為(利己)
他人に損であり、自分には損な行為(利他)
他人に損であり、自分にも損な行為(悪意) ←本書における悪意の定義
日本語的には、これには少々違和感がある。
我々が「悪意」と言う時、単純に「他人を貶める、損をさせる」イメージで、自分が損をするか(コスとをかけるか)は、普通は考慮していないと思う。
ただ、本書では「コストをかけるか」は、一貫して重要な指針を成している。
なので、その辺りは前提として、想定しながら読んでやる必要がある。
この差だが、たぶん、言語に因っている。
原著での「spite」と、日本語の「悪意」の、ニュアンスに差がある、ということなのだろう。
本書は、心理学から社会科学、脳科学や遺伝に係わる研究論文、果ては文学作品に至るまで、膨大な資料を題材として引き、著者の見識を交えながら「悪意」を分類し、解釈し、再構成することで、その何たるかの像を結ぶ。そういう作りになっている。
著者は、アメリカ人だ。引かれる文献も西欧由来がほとんどなので、言葉の定義にしても、必然的に原語のものを踏襲する。
また、本書は、心理学の准教授による半・学術的な考察でもあるので、言葉の意味する所も、曖昧さを避け、なるべき厳密を期しておきたいのは当然だ。
日本語で「悪意」と言った場合、副題にある「意地悪」レベルも含むように、日本語的な曖昧さは避けられないので、あらかじめ定義を明確化することは、妥当な措置と思える。
さて。
「たとえ自分が損をしても、相手に害を及ぼす。」
そこまで思い詰めた行動が、そんなにあるものか?とも思うのだが。
本書には、その実例が、これでもかと出てくる。
著者の興味の一つは、悪意がなぜ、今も残っているかだ。
悪意は、上述の定義の通り、自他共に害を及ぼすものなので、端的に、誰のためにもならない。
群れを全滅させかねないそれは、敗者の論理のはずなのだ。
それが、勝者の歴史であるはずの進化の過程で淘汰されずに、まだ残っているのはなぜか。
進化論の解釈に従うと、進化の過程を経て今に残る我々は、勝者の子孫である(はずだ)。
(と言っても、その時々の環境に適応できる素質を「たまたま」持っていた、というだけなのだが。)
勝者の子孫なので、勝者ならしめた素質を受け継いでおり、それを優先的に使うし、そうすることを半ば運命的に強いられてもいる。
しかし、環境の方は勝手に変わる。変わった後の環境で、勝者の素質が役に立つとは限らない。
その乖離が明確化した時、勝者は滅ぶ。
そして往々にして、墜ちる勝者は、道連れを欲する。
別の観点から、平等主義の裏返しのコンテキストによる解釈も示されている。
群れの成果は、ある程度は確率で決まるものなので、結果は平等に分配するのが、群れの維持としては妥当だ。
故に、平等を超えて不当に多くの(と思しき)成果を望む者は、罰せられる。
罰すべきだ、罰していい、そういう力が、群れの知恵として備わっている。
そういう仕組み論である。
そんな感じで、悪意の背景を成す思想、それを正当化したり抜け道となる概念、発動のトリガー等々、実に多様なアスペクトから、悪意の理解が試みられている。
正義、罪、罰という概念
怒りという感情
共感力の欠如や不足
共感しない相手の選別
欲望
不平等、既得権益、エリート
嫉妬
善人ぶるものへの蔑視
悪意による共感と、そのネットワーク化
シャーテンフロイデ
支配欲
理性と自由
正義という概念は、罰を正当化する。その執行には、往々にして大きな代償を伴うが、脳科学的に中毒性が見られるほど魅力的かつ依存的であるらしい。
怒りという感情で自分に火が付くと、人にも火をつける行為が、即時かつ一時的な判断力の低下・短絡の結果として現れる。心理学的には、それが理性の裏返しである場合もあるそうで、これまたややこしい。
共感力の欠如や不足は、先・後天的の両パターンがある。(確かに、生まれつきの共感力の多寡は散見される。)また、共感をすべき相手かどうかのフィルタリングは、どの文化圏でも普通に見られる。例えば、人種を含むあらゆる差別や、異教徒迫害などがその実例であり、と言うことはつまり、宗教までが「悪意」の規範を成す場合がある。
無論、これらの全てが、「悪意」に直接、影響しているわけではない。タイプ分けは可能だし、本書はその作業に膨大な手間を割いている。様々な角度から光を当てて、ディティールも漏らさず描くべく、緻密な(≒しつこい、くどい)作業をしているのだが、それが事の輪郭を明確化するよりも、複雑化が勝ることにより、かえってボヤけてしまうのは、この手の書物でありがちな帰結だ。
人間の考え方なんて、「こうすべき」という基礎・基盤と、「実際にやること」の間には差があるし、その差分にも、いちいち理由がある。
その入り組み方は、人間というものをよく表しているので、単純に人間ドラマ的に読めば面白いし、「人間がよく書けているなあ」のような解釈も可能だ。
それが本書の価値でもあるのだが、肝心なところで釈然としない印象が、最後に残ってしまう。
悪意を把握し、対処する。
本書には、その手がかりを期待するだろうと思う。
ただ、その「対処」は、一向に明らかにならない。
終章に近く、民主主義の効能に絡んで、少々光が差す様が描かれる程度に留まる。(構成員のリテラシーの向上に期待、のような帰結。そんなのは誰でも書けるだろう。)
つまり、本書は「著者が考えた悪意の解説本」と言えると思う。
個人的に、本書の内容は、人間の認識の相対性で説明できると考える。
人間は、絶対評価が苦手だ。
特に、自分自身の絶対評価ができない。
どうしても、相対評価に陥ってしまい、かつ、それに依存する。
例えば、身長が何センチ、給料の額面よりも、自分より背が高い奴、自分より貰っているヤツが気になる。
比較対象は、兄弟やクラスメート、同僚、同期など具体的な場合もあれ、平均点などの統計値や、評判、噂、世論など、ただの概念の場合も多い。
たとえ絶対値が足りていても、差が大きいと許せないし、それを解消しようと画策する。
よく言えば平等主義が浸透している。
悪く言えば、我々はひがみ根性で動いている。
自分を客観評価できて、それに即して納得して動けるのであれば、悪意など必要なくなる。
比較対象が「概念」というのも曲者だ。概念は、実物を伴わない、ただの脳内イメージだ。実際には無いものと比較しても、埒が明かない。
概念を駆使し、かつ他人と共有できるのは、言語と共感力を持つ人間だけだ。だから、悪意も人間だけで、動物には無い。
また、概念は移ろう。だから、その量や有り方は、地域や人種、文化で異なる。認識が移ろうので、その発露の一端である悪意も、移ろって当然だ。
本書だが、前回取り上げた 欲望を取り上げた本 に比較して、訳はこなれていて読みやすい。
たぶんこれは、原文がドラマチックに、面白おかしさにも考慮して書かれている故だろう。
ただ、後半になると、論理は入り組む一方だし、引用も繰り返されるしで(前々章で定義したコレと比較するとああだこうだ、のような)、ややこしさは増加の一途、かつ、一向に整理されてスッキリしては来ないので、読むのがだんだん辛くなる。端的に、やや膨らまし過ぎの印象もあり、読後の爽快感は期待薄だ。
ただ、純粋に心理学的に悪意を考えるというアプローチはあまり見られないので、知的な興味は引かれるし、知識としても有用と思う。
本書の読者は、そういう人なのだろうと思う。
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