読書ログ 「野生のエンジニアリング」 ― 2014/01/04 07:02
ずっと前、どこかの書評で見かけたのだが。
題名に惚れた。
「何だよそれ。」(笑)
著者は、文化人類学の学者さんであり、本書も、基本的には人類学の本である。
人類学とは、空間的(地域)、時間的(時代)に、総体(群れ)としての人間の「ありよう」を明らかにしようという学問・・・だと思う。
だから、本書は、題名は「エンジニアリング」だが、基本、エンジニアリングを論じた本ではない。
しかし、結論を先に書いてしまうが、人類学としては突込みが浅いものの、技術を論じた本としては、面白かったと思う。
本書は、タイの機械(特に農業用の耕作機械)の扱われ方を詳細に調べ、そのありようが、先進国に一般のありようとかなり違う(ことを見つけた)として、その差について論じている。
機械の分野において、先進国に普遍的に見られる様式、例えば、メーカーの系列や、知財(特許)の枠組み、図面による情報伝達といったことなどだが、それらを全く持たず、ひたすら独学による手先の技術(職人芸、または見よう見まね)によって担われていることが「独特だ」とし、それが各個・野放しに行われ、自己整合的に形成・発展しているのを「野生だ」と表現している。
例えば、農耕トラクターの整備や修理、改造などは、専ら、その課題(不具合など)を、関係者一同で「見て」、原因から対処を「考えて」、現物合わせの一品物をその場で作ることで「対応」されている。
著者は、先進国では、機械の特徴から価値までを規定するのは、作り手の主体であるメーカーだ、としている。(「トヨタのクルマ」と言われれば、大体の特徴や品質などが想起されるように。)さらに、商品の供給から、維持管理の手段(部品の流通、整備情報の伝達など)までの粗方が、メーカーの手中にあるのが普通だ。
著者は、そういった「機械の所以」のことを、オーサーシップと表現しているが、そのあり方が、タイでは全く異なっていると言っている。メーカーは、ほとんど何の役割も果たしていないし、期待されてもおらず、流通チェーンにも入れていない。
もともとは、日本などから、壊れる寸前(または壊れている)安いポンコツを買いつけて(経済的に、それしか買えない由)、何とか自前で直して、自国の状況に合わない所は改造することで、使いこなす・・・というか、使い回して来た。そのための環境、中古の部品を供給しあうネットワークや、現物合わせで部品を作ってしまう技術体系が、自己発生的に構成され、既に長い歴史を経て、成熟していると。
そのあり様が「独特」だし、それがかえって、人間と機械の係わりのありようという意味で、西洋の「独特さ」をあぶりだす、というのが著者の主張であり、発見だと。
私はそうは思わない。
タイ型のエンジニアリングは、そこいら中にあり、別に珍しくもない。
著者が言う「先進国の機械エンジニアリング」のモデルは、「大規模・大量生産の機械製品」に限られる。それ以外のもの、「大量生産でない機械」や、「機械以外の製品」などでは、「タイ型のエンジニアリング」は先進国でも普通に見られる。
例えば、一般には、機械より先進と思われているかもしれない、電子機器の開発現場は、思い切り「タイ型」だったりする。
電源チップ、というのがある。製品に組み込まれている電子基盤の入り口で、電圧電流を整えて、居並ぶ電子部品たちにパワーを安定供給する重要な役割を担っている。これ自体が、やはり高度な半導体ICだったりするのだが、この開発などは、かなりの割合で「タイ型」だ。
例えば、何ボルト何アンペア、という「仕様」がちゃんとあったとしても、それが安定動作するかは、ユーザー(基板の作り手)の設計に依る。使いこなしの技が必要であり、その知識や方法も情報としてセットで売られてもいる。しかし、電子機器の開発現場で、その通りにちゃんと使われるかは別の話だ。原因は、単なる「無知」かもしれないし、諸般の事情で「無理を承知で」もありうる。(基板中に張り巡らされた電源配線が全てつながっているから、どこからどんな影響がどう及んでいるのか、とにかく、わかりにくい。)で、「動かないぞ!」となって、サポート部隊の出動、となる。(出動ならまだしも、フツーに常駐していたりする。)製品のデキ(性能や値段)よりも、サポート力(その場の状況を見極めて各個対処する能力:タイ型能力?)でもって、製品の評価が決まる場合も多い。
ややこしいのは、これが、えらい規模の大量生産品の話だったりすることだ。製品あたり月に数百万個という規模はザラだったりするので、クルマ辺りとは生産数の桁が違う。大量生産だから西洋型だ、と一概に言えるわけではないのだ。
もっと簡単な例は、インターネットだろう。
一応、どうつなげるかの基本だけは何となく決まっているが、どんな情報を流すか(出し手)、どんな情報を見るか(受け手)、どんな枠組みで使わせるか(単に見るだけか、カネを絡めて通販にしちゃうとか)など、各個でカスタムしまくりである。(お国が勝手にカスタマイズして、人のものを勝手に覗いていた例が、つい最近、明らかになっていた。)皆、自分の都合の良い方法で、便利に使いまくり。つまり、タイ型だ。
要するに、大量生産かどうか、機械かどうかを問わず、オーサーシップのあり方は、業界の事情や背景で決まっていて、特にタイが珍しいわけではない。その区別は、世界中、業界別に、まだらに分布しながら、関係し合っている。だから、その対比の一部をもって、何かを見つけたという著者の主張は、間違いだ。
そんなわけで、人類学としては突込みが浅かったと思うが。
技術論としては面白いなと思った。
まず正しておきたいのは、著者の「エンジニアリング」という用語が、少々違っているように思う。メカニックの仕事と、混同しているように思うのだ。
エンジニアリングとは、機械を作り上げること。先進国的には、主に設計製造のことだ。
メカニックとは、既に出来上がった機械の維持管理を、現場で担う行為だ。
この二つは、ある程度は重なるものの、今の時代では、区別して考える必要があると思う。
とはいえ、そもそもは、これらは区別されていなかった。
技術(エンジニアリング)の粗方は、各個対処の「タイ型」だった。
大工さんは今でもそうだが(家は一軒一軒違う由)、昔、鍛冶屋さんは、注文に合わせて物を作っていたろうし(もっと大きい鋤とか、硬い鍬とか)、刀鍛冶は、各個の技術を極めすぎて、最新の科学知識でも作れないレベルに及んでいた。同じような例は、西洋でも見られたようだ。(名器と言われるバイオリンの製作法がわからない、といった類。)技術者(職人)は、その場その場で、自分の庭(専門分野)を、ニーズにある程度従いながら、掘り下げていた。
今では事情がだいぶ違っていて、先進国の(製造)技術は、もっぱら、大量生産に焦点を当てて最適化されている。同じ製品を多量に作って世界にばら撒くのが、商売としては、一番効率がいい。各地各様の仕様違いは、それを包含できる単一の造りにするか、さもなくば、チョイ変で済ませる。つまり、製品が狙うターゲットが、昔に比べて、かなり大きい。
ところが、上記の電源チップのように、量が桁違いに多いのに、いちいち手間がかかる場合というのも依然としてある。大量生産前提のビジネスモデルとしては矛盾しているのだが、だからこそ、先進国は苦しんでいるし、生産とサポートの両方を人海戦術でこなせてしまうアジアの大国のようなところに、全て持って行かれようとしている。構造的な問題なのだ。
その辺りの価値の構造が、タイではまるで違っている。
製品は、日本から持ち込まれた、大量生産品、既製品である。当然、それらが実現する機能というのはあるのだが、ユーザーが欲するニーズとは、直接は関係がなかったりする。
その間を埋める仕事が必要になるのだが、タイでは、それが、価値を生んでいる。
製品の基本機能を維持しながら(メカニック)、ユーザーのニーズを実現する、少しの創造(エンジニアリング)を加えている。その創造を、使い手と、作り手が、一緒になって実現することで、互いにメリットを得る仕組みになっている。
機械は、人々の役に立つし、寿命も遥かに長く使える。
使い手は満足するし、技術の向上が、収入の向上や職の安定になるから、作り手のやりがいにもなる。
能力を、互いに役に立てられる。
関係者一同の、満足度が高いのだ。
著者は、こうしてできた機械を、「民具」と表している。
私はこの表現に、ドキリとした。
ものづくりで鳴らした我々日本人は、民具と呼べるような機械を、作れるだろうか。(作れたことがあったろうか。)
( カブ くらいかな。笑)
アジアならではの曖昧さ。
さほどの精度を持ち得なかった、という意味での「必然」と、
だからこそ、バリエーションをもてたから生き残れた、という意味での「偶然」が作る、
「野生」の、まだら模様。
これは、何かを示唆してはいまいか。
新しい(古い?)技術、または仕事のモデル。
機械のありよう。
暮らしのありよう。(←人類学には、ここを突っ込んで欲しいのだが)
ところで。
私が危惧している、というか「知りたいな」と思っていることが、一つある。
機械の作り方の話だ。
今、機械は、まず、粗方の状態でも動くよう、大味な設計にしておいて、個別の対応や味付けは、電子制御に任せる傾向を強めているように思う。
簡単に言うと、何馬力出るかはもとより、勇ましく出すか、マイルドに出すかまで、制御チップ(のコード)が決めている。
もし、このまま行くとなると、メカニックの仕事は、本当に基本的な維持管理(オイル交換やアッシー交換程度)だけになり、それ以外の最適化、セッティングやチューニングは、チップ仕事に置き換わることになるだろう。
それは、機械技術の衰退にならないだろうか。
エンジニアリングと、メカニックの、両方の意味で。
そこまで、電子制御は信用できるのだろうか。
それは、「幸せな結婚」なのだろうか。
もし、違うのなら、幸せな結婚の仕方というのは、どんなだろうか。
(そも、ありうるのか?。)
それは、機械の、道具の、人類の、将来に、どう影響するだろうか。
(そのために、私は今、何ができるだろうか。)
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