読書ログ 「日本写真史 上/下」 ― 2014/01/25 09:08
普通、新書の新刊が図書館に入庫すると、次々に借りられて、あっという間に手垢だらけになるものだが。何故か、本書は真新しくて、借りられた痕が無かった。
借り手が居ないらしい。
まあ、その分、まっさらな本を読めたのはラッキーだったが。
一読して、何となく、その理由がわかったような気もした。
題名は「写真史」だが、内容は、写真「業界」史、と言える。
写真の作り手、出し手の側の視点から書かれている。
上下巻の、それなりの分量がある資料だが、その点は一貫していた。
・こんな写真家がいて
・こんなメディアで (報道、雑誌、広告、写真集、Web ・・・)
・どんなことを表現していたか
どんなことを表そうとしていて、
それが、当時、業界でどのような評価を受けていたか。
その時系列の「歴史」が、時代毎に(何十年代、のようなくくりで)綴られている。
日本の写真史に関する過去の文献の、手の込んだ「おまとめ」とも言える。
この本の使い方を考えると、次の二つかなと思う。
・これから、「写真の作り手」として、「写真業界で」何かを成そうと
考えている人の、参考資料。
・昔、出ていた写真集で、面白そうなものがあったか掘り起こしたい
と思っている、好事家(または勉強家)のための資料。
だから、ほとんどの「普通の写真好き」、ましてや一般民間人には、関係ない内容だと思う。(だから、借り手が居ないのかと。)
読み物としては、イマイチだ。
確かに、これだけの調査をよくもやったもんだ、と感心するディティールで書かれているのだが。写真の表現そのもののに対する入り込み、その「刺し込み具合」では、例えば、「 木村伊兵衛と土門拳
本を売るためのマーケティングとしても、写真の受け手、見る側の視点から、その歴史を書いた方が効果的だった(読者が多い、端的に「売れる」)のではなかったかと思う。
例え話で説明すると、
パルコのCMを見た後では、ウオーホールには驚かなくなる。
時系列には、ウオーホール→パルコ、なのだし、そちらが「正しい業界史」ではあるのだが。専らテレビを眺めている程度の普通の人にとっては、そういう順番の認識になることもある。(そちらの方が多かったかも知れない。)
重要なのは、そんな風に、フツーの人々も、受け手としての感じ方を、時代につれ、変えているという帰結だ。
昔の子供は、仮面ライダーなんかを本気で見て喜んでいたが、今は、(あの血圧の上がる)ワンピースなんかを平気で見ている。
そういう風に、受け手の感じ方も、時代によって変わっている。
写真も同じだ。
真実を写すから「写真」。
当初はそのはずだった、この映像手段は、その受け取られ方を変えて来た。
伝達であったり、宣伝であったり、記録だったりしていた。
そして、そのそれぞれが、変遷を経て変容し、今に至っている。
「報道」写真は、写し手の意思や意図が反映されるという点で、ある程度「捏造」であることを否めない。それがあらわになるに従って、「伝達」としての意味合いを低下させてきた。(もてはやされた時代もあった、という感じ。)
「宣伝」の状況は、その先を行っていて、控えめすぎれば目に付かないし、やりすぎればウソくさい。その間の「ちょうどいい所」は、時代につれて縮小し、今や重なってしまっている。(控えめでも、ウソくさい。)
かつて、私的な映像の記録手段として、長く王座にあった写真だが(動画:8mmは撮るのも見るのも大変で、アルバムにまとめて、しれっと仕舞っておける写真は実に便利だった)、今や、デジタル化を経て、その立場を大きく変えている。
私見だが、あらゆる分野で、写真が持っていた役目は、「動画」に置き換わろうとしているように思う。
実際、静止画と動画では、伝わる情報の量が、まるで違う。
背景は、やはりデジタル化だ。
実際、ビデオが撮れるデジカメと、写真が撮れるビデオカメラの何が違うの?という時代だ。
(答え:マイクの質。大概のデジカメのマイクは、ビデオカメラに比べてしょぼい。もともと付いていない所に、最小限をムリヤリ付けて済ませている場合も多い由。画像とは関係しない「音」が差別要因という、皮肉な状況なわけだが。)
動画の投稿サイトも盛況だ。 自分が言いたいこと、伝えたいことを、より潤沢に、わかりやすく、楽しく、簡単に、配信できる。
無論、好みの映像を「作り上げる」こともできる。
以前は、奇抜なセットやメイクでもって目を惹いた「芸術写真」もあったのだが、既にその分野は、CGやアニメーションに追い抜かれて久しい。
そういう状況にあって、写真の「意味」とは何だろうか。
見回せば、どこも行き詰っているように見える。
スチルカメラの売れ行きが芳しくないそうだ。
そも、電話のオマケについている。
新製品も、若い女性でも気軽にボケが撮れます、なんていうミラーレスがせいぜいらしい。(これも一瞬で凪ごうとしているようだが。)
本屋の写真集コーナーも、ぱっとしない。
女性が取った、プライベートの「恥ずかしめ(苦笑)」な写真集と、
花鳥風月の類の、定番の風景物(中~大判の)と、
ワケのわからない流行物(プラントとか廃墟なんか)とか、
後は、イワゴーさんのネコ
・・・うーん。
先の震災時に出た写真集も辛かった。
現地の辛さ厳しさを伝えようと、必死で撮られた労作が、たくさん出ていた。
確かに、中身を見てみれば、身につまされる感情で、震えが来るほどなのだが。
では、私に何ができるのか。そう自問して、沈黙する。
写真が「何を伝ええたのか」ということでは、昔と同じなのだ。
一時期、多量に出ては潮のように引いて行った、残酷な報道写真とか、写真週刊誌なんかと同じ。
写真が、やってきたこととは?
できることとは?
この本の筆者は、日本の写真の評価は、世界的にも上がっている、のような言い口で、本書を終わらせているが。繰り返すが、そんなことは、一般読者には関係ない。
私も昔は、写真を撮るのが好きだったが、もう自然に引退してしまって久しい、撮るより見る方が専らの、古参のフィルムカメラ愛好家だ。だから、そんな見方になるのかもしれないが。
こと私にとってみれば、写真は、「好く撮れたなあ・・・」という、あの満足感そのものだ。
そして、その満足感は、あらゆる種類のデジカメより、使い込んだフィルムカメラの方が強いと、今だに思い続けている「時代遅れ」でもある。
だから私は、思い出したように(思い出したんだけど実際)、古いカメラを持ち歩いた挙句、すっかり無くなってしまった現像ラボを探しながら、不自由になったなあ、などと考えながら右往左往することを、きっと、やめないのだろうと思う。
写真の役割を考えることもやめない。
「何が撮れているのか」を決めるのは、受け手(の一人である私)の仕事だと思っている。
要するに、自分を外から見る能力、ということだ。
立ち止まらないと見えない、大切なものというのも、あるはずだと思うんだが。
美を細部に宿らせて、遊んでいる場合じゃないはずなんだが。
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