◆ (単行本) 月着陸船開発物語 ― 2023/06/04 06:19
1960年代のアポロプロジェクトで、月着陸船の設計開発に関わった技術者による手記だ。
各種の書評で高評価だったので、購入して読んでみた。
人類が月に降り立ったのは、あのアポロの時が最初で最後だ。
その当時、まだ幼児だった私は、一般人の熱狂ぶりを知らないのだが。本書からは、その辺りも含めた、市井の雰囲気も伝わってくる。
ケネディ大統領にアポロ計画の推進を決心させたのは、民衆の熱狂的な支持だった、とある。この後、アメリカはベトナム戦争に向かうが…という例がここで適切かは置くとして、今とはまた違った混沌と混迷の気分が、この当時にもあった。その妙にどんよりした雰囲気の中で、人類の月到達というアポロ計画は、米国人が、自分たちはまだ偉大なことを達成できる、その能力があるのだ、という希望と期待を持たせるに十分な、きらびやかなインパクトがあった。
新機軸の確立には、民衆の支持が要る。
アポロ計画には、それがあった。
だから、踏み出せた。
本書によると、その開発は、以下の体制・分担で行われたとある。
ノースアメリカン社
司令船、支援船、宇宙船全般統合を担当。リーダー格。
グラマン社
月着陸船を担当。(システムはRCA社など外部を適宜使用。)
MIT
誘導や航法装置を担当。
GE
品質管理や設計データ管理システムなどを担当。
無論、発注者であるNASAが、ほぼ常駐の形で、各社の管理、監督、監視と指導に当たる。(上記メーカーからすると、「完璧な発注者能力を備える厄介な顧客」だ。)
本書は、上記のうち、グラマン社の月着陸船の設計開発の主担当者による、その工程の詳細な記録だ。
技術者の手記なので、お話が細かい。正確を期しているのだ。字数が多くて読みにくく、本当に読んでいて疲れるが、情報に漏れがなく、緻密だ。この手の本でありがちな、詳細は機密なので書けない/面倒なので書かないことによる、誤魔化されている感じはほとんどない。読むのに胆力は要るものの、情報を拾うことの意義は保証済みなので、安心して、淡々と読み続けられる。
契約コンペから始まって、事がどんな思想で、体制で、工程で、順序・スケジュールで進み、どんなトラブルが発生し、どう解決されたか。淡々と、しかし緊迫感を持って、綴られている。
長くてかったるい話でもあるのだが、半ばまで読み進めてしまうと、続きが気になって、離れることができなくなる。
そうやって、月面到達のクライマックスから、その後に続く一連の打ち上げに至るフィナーレまで、離れずに読み続けることになる。
60年代の宇宙開発とは、どういうものだったか。
まず、時代はICという電子デバイスの創成期だった。電子基板はもとより、それを用いた「システム」という概念も、端緒に着いたばかりだった。つまり、今では与件ともいえる設計監理インフラの開発と整備から、同時並行して行われる。
例えば、当時はまだ紙の図面の時代だった。手書きの機械図面を製造現場に出図して初めて、モノが形になる。なのだが、これだけのプロジェクトとなると、図面の数も膨大で、情報量も膨れ上がる。後工程である製造部門には、どこが製造のキモか、どういった順番で造るべきか、といった細かい情報が必要なのだが、そういった情報共有・意思疎通そのものが困難になる。これを解決すべく、図面システムを組んで、情報を滞りなく流す。つまり、業務の改革と整理と浸透を、並行して行うわけだ。
扱うのが、未経験・最先端の分野であったことも、実に大きな影響があった。問題や課題に対して、何をどうすれば解決できるのか、知識を持っている人材は探せばいるのだが、SNSなどない当時、人づてで探さねばならない。技術的に適任だとしても、組織やポストに適するかはまた別の話だ。この辺り、どうも米国型の組織作り(と私は勝手に呼んでいるのだが)が効いていて、チームワークを標榜するのは当然で、実は個人間の信頼や親密度に依拠した「米国型の村社会」を編む作業を、著者は行っている。なので、新しく登場する人物は、外見の特徴から思想や性格、業務上の実績を含むバックグラウンドまで詳細に記述されていて、その人となりを読者が想像・把握できるよう配慮されている。基本、評価のKPI はチームへの貢献度だが、単純な能力主義では決してなく、「よき友人」であることが求められる。ある程度、プライベートを開示したり、時には犠牲にすることも普通に求められた、前時代的な雰囲気だった。
今も昔も、組織の円滑な運用を妨げるのは、情報(流通)の不足である。説明が足りなかった、理解できてなかった…。これを避ける最も直接的な手立ては、今も昔も、人脈だ。その意味では、この米国式の村社会は機能していたし、正しかった。しかしその副作用は、人海戦術に陥りがち、という形で表出する。
プロジェクトに関わる人数は、自社のみならず、関連企業や外注業者、NASAまで含めれば、膨大な数に及ぶ。さらに、作業の進捗に従い、必要とされる組織の能力や規模が変わるから、組織の改革や追加も都度、必要になる。組織作りにかかる工数は並大抵ではなかったことが、本書からは伺われる。(人事関連の業務も技術者が主導していたということにも驚くが。今ほどHR関連が利権化していなかったようだ。)
ワンオフ開発だったことも大きい。未経験の分野だから、課題も問題も初物であることは当然なのだが、得られた結果は、プロジェクト内で信頼性をもって再現される方向でこなされるのが主で、次のプロダクトへの応用を鑑みて要素レベルにブレークダウンしたり、コストに最大限に反映すべくQA含めて再検討に付されるようなことはない。現代のハードウエアエンジニアが携わるのは、普通は量産開発で、そこでコストを回収すべく当初から考慮する所から始めるのが常なのだが、ワンオフ開発ではそのようなことはない。開発途上で発生したコストは、単純に積み上がって、見積金額に跳ね返るだけなのだ。そんなのは言われれば当たり前なのだが、現代のハードエンジニアでもある私には、妙に異質、というか奇異に感じられた。
ただ、当時の設計開発というのは、ある程度は同じような雰囲気で来ていたようだ。例えば、大戦前後の軍用機の開発などは、前人未到の性能を常に要求されるし、トータルで何機製造されるかは、開発時には決まっていなかったりする。情勢は常に動いており、例えば戦争が起きた後になって、軍が前言(≒要求仕様)を翻すことは当然のようにあった。試作機だけで終わるかもしれないし、逆に、世界中に配備される大ヒット機になるかもしれない(大変なレアケースだが)。
その意味で、本書の舞台であるグラマン社は、同種の仕事に慣れていたのだろう。
まずは、設計の仕事から。
性能、機能
重量
安全性、信頼性
整備性 ←大概最後に回される(泣)
コスト
製造性
進行途上での仕様変更や追加は普通で、全体が決まるまで紆余曲折を経るが。そんなのは、ほんの序盤だ。
設計→製造の谷については上でも書いたが、プロダクトが完成しても、信頼性テストで盛大に問題が見つかり、NASAから試験のやり方にまで翻って大掛かりなご指導(てか「手入れ」)をいただいて、また図面からやり直しになったりする。事は信頼性のみならず、重量低減や、バッテリーなど細部の要素技術にも及ぶので、対応にはシャレにならない時間と工数がかかる。
1号機をNASAに納入した後も、信頼性の再試験で何故か壊れたりと散々だった。ちなみに、試験内容は納入前と同じで、NASAと協議して決定した仕様そのままだ。(自社工場でテスト合格→納入後に客先で再テストで壊れた、という「初号機あるある」。)
まあ、ある程度は予想通りのデスマーチではあるのだが。根本的に、扱う項目が全て新規であること、つまりプロジェクトの進行そのものが「創造」であるという、辛く楽しい作業であったことに依るのだと思う。初物が動かないのは当たり前だ。しかし、明けない夜はない。「芋づる」と「しらみつぶし」の果てしない戦いの後に、それがワークし始めた時の喜びは、当事者にしか味わえない。
アポロ1号(月着陸船ではなく打ち上げロケット本体の方)の悲惨な火災事故など、困難な紆余曲折は、他にもあった。しかし、そこから貴重なフィードバックを得つつ、乗り越えつして、アポロプロジェクト全体が、次第に形を帯びてくる。
月着陸船の開発フェーズも、モノをどう造るかの次の段階、全体の運用の中でどう使いこなすか、に移って行く。全体の運航計画、どう打ち上げてどんな軌道で月に到達し、どう月面に降りて、何を調査し、帰還はどのような手順を踏むか。その中で、月着陸船は、司令船や支援船には、改善の余地はないか、フィッティングは最善か、万が一の事態が生じた時にも対応可能な余裕はあるか。そういった、全体を見据えた作業に移って行く。
この辺りで、お話の様相が変わってくる。作業の内容が、設計製造から、実運用、つまり「実際に飛ばしてみる」ことにシフトするのだ。図面やモノを前にした地上での息苦しい作業から、実際に宇宙を飛ぶその着陸船を、遥か空の向こうに見上げる。そういうフェーズに入って行く。
無人機によるテスト飛行から始まって、周回軌道への投入、有人飛行による運用・確認といった段階を経る。その過程で、新たな緊張感と期待感が高まって行くのだが、そのピークは無論のこと、実際の月着陸だ。
著者を始めとした関係者は無論、一般の観衆も、その瞬間を、固唾を呑んで見守る。
ご存じのように、その偉業は、アポロ11号で達成される。
この瞬間の著者の感慨、NASAの歓喜、一般観衆の熱狂は、後進のわれわれには、にわかには想像できない。
ちなみに、最初に月に降り立った船は、月着陸船の5号機だった。(それ以前の機体は、上記のテスト運用に供されて消失している。)
その後アポロ計画は、月面調査のアイテムを増やしつつ繰り返される。
あの悪夢だったアポロ13号を経ても、それは実行され、最終的に、アポロ17号で終わる。トータル12年にわたるプロジェクトとなった。
この「繰り返し」というのがある意味曲者で、一般大衆の興味は、急速にしぼんで行く。月に行くことが、真新しくなくなったのだ。アポロ計画の目的が、「月に行くこと」そのものよりも、各種の科学調査に移って行ったことの影響もあったろう。(これこれの分析結果は、量子物理学のナントカ説を裏付けるものなんですねえ、のような「成果」は、一般大衆の熱狂は呼ばない。)
アポロ計画の実行を始めに決定させた大きな要因は、大衆の支持だった、と冒頭に書いた。そこが大きく毀損するに従い、アポロ計画そのものの価値も、しぼんで行った。
アポロ終盤の一連の調査の結果、宇宙飛行そのものや、次なる調査の問題・課題も明らかになった。そうして、宇宙開発は、次のスペースシャトルへとフェーズが移って行く。
著者のグラマンチームも、無論のこと、その受注に動くのだが。結果的に、失注に至っている。著者は、その原因分析を行いつつ、アポロ計画全体を感慨深げに振り返って、本書を終えている。
その著者の感慨は、この大変な作業を経てきたことの果実だ。同様に、この大変な文章をこなしてきた読者も、いわばずっと付き添ってきたようなものなので、そのエッセンスを共有できる。
本書の醍醐味である。
たぶん本書は、技術職に携わる人の方が楽しめる(≒身につまされる)。しかし、何にせよ仕事というものの本質が、課題や問題に立ち向かいながら、何かしら物事を作り上げ達成することにあるわけで、技術職に関わらず、多くの人が共感を持って読める書だと思う。
21世紀も20余年を経た今、開発というものの方向性や目的感が、かつてよりボヤけて見えるのは、私のような老人だけかも知れないのだが。開発(≒創造)が、まだシンプルで、輪郭がハッキリしていた頃の話をつぶさに読んでみるのも、よい読書体験になる。本書はその証だ。
万人におススメしたい本である。
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月着陸船開発物語 単行本 – 2019/2/1
◆ (単行本) 「中国」という捏造 ― 2023/06/11 05:11
題名に即した内容の本だ。
原題は「中国の発明」だが、中国という概念がどう創造され、流布されて来たかを詳述している。
その国が依拠する公式な歴史や思想を編むという作業は、多かれ少なかれ、どこの国もやるものだが。この国の場合、それがいかに恣意的か、この国自身の文献を主な題材として調べている。調査を詳細に行い、結果を詳述するという、首尾一貫細かい作業を、淡々と行っている。
例えば、
「中国の人は水を飲まない。必ず白湯にして飲む。」
そう聞くと、まるでそれが中国ン千年の歴史で育んだ貴重なノウハウのように聞こえるのだが。実は、毛沢東あたりが、庶民が生水で腹を壊さないように強制した由だと、どこかで読んだが。
大まかには、そういった話だ。
そもそも、「中国ン千年」とはよく言われるセリフだが。「中国」という国は、ここ数十年の歴史しかない。それより前に、あの場所にあった権力体は、今の中国とは縁も所縁もない、全くの別物だった。そもそも、公式に自国を表す名称すらなかったのだ。
「中国の歴史」の類の本を読むと、時の情勢次第で専制の主体が入れ替わるだけの、暴力と混沌の繰り返しのように見える。それは、日本も含めて、どの国もある程度は同じなのだが、無理を承知でそこに一本筋を通そうという試み、例えば、尊い皇族(将軍様でもいい)に一貫して統治されている由緒正しい国ナンデスネエ式の言い募りは、非現実的な試みとして、他国からは白眼視され、自国民は恥に感じる。それが、一般的かつ常識的な認識だと思う。
しかし中国は、これをあらゆる場面で、実に微に入り細を穿って成してきた。
その目指すコンセプトは、第1に、この国が長い間自認してきた、「朝貢国の頂点として世界の中心に君臨する大国」であり、第2に、西欧列強により騙し討ちされ墜とされた国威(アヘン戦争のこと)を、何としてでも挽回する、という「恨み」の感情だ。
そもそも、「中国」という言葉は、「世界の中心にある絶対的な存在」という意味だ。その認識にそぐわないものは全て誤りであり、悪である。この、文字通り自己中心的な思想は、かの地の帝(今は書記長)が受け継ぐべき正当なものだと、中国は本気でそう思っている。現にそれは、今の中国の行動原理となって体現されており、それを目的に据えて、中国は、民族、歴史、言語、領土、あらゆるものを捏造、まあ良く言っても創造してきた。
その一例というか一段階として、本書では、「国家主権」という言葉について、一章を割いて説明している。中国には、主権という考え方はもともとなかった。外国からもたらされた概念であり、しかも翻訳によるズレという曖昧な部分を我田引水した形で、都合よく構成されたものに成り上がっている。今の中国が言う「国家主権」は、「中国は世界の中心であるという事実、かつ、それを他国に強制してよいという免罪符」という意味になっていると。
中国が言う国際秩序とはそういう意味だし、一路一帯や、最近言い出している人類運命共同体というのは、そこ(中国を中心とした絶対的な世界秩序)へ至る経済的、概念的な道筋という意味を持つ。
我々は、そういった一極的・絶対的な自意識よりも、平等や人権、自由といった概念を貴ぶ側に属している。だが、中国にとって、人権や自由といった概念は他人事だし、押し付けられた異質なものであり、ぶっちゃけ、余計なお世話だ。だから、決して認めない。
彼らの考えは、我々とは違う。それどころか、相容れない。
彼らが操る言葉は、我々とは全く別の意味を持つ。
「どうりで話が通じないわけだ。」 そういう場面は頻発する。
中国とそれ以外との会話というのは、得てして同じ相を持つのだが、特に日本は、留意が必要だと思う。
歴史的に見て、中国(正確には、その当時の大陸の統治体)は、長い間、日本の先生だった。文字、宗教、哲学、儀礼、いろんなものを中国から輸入し、尊び、変容して、熟(こな)してきた。そのせいか、日本には、中国の言うことを頭から真に受けてかかる人たちが、為政者レベルにさえ一定数居るし、一般庶民に至るまで、ある程度、その影響下にある。上の中国ン千年の類は、そのいい例だ。
対して中国はといえば、かつて自分が負けた(←アヘン戦争のこと)西欧列強の側に与し、中国自身は失敗した西洋化・近代化に易々と成功し、西欧列強と同じ理屈でもって、力で地域を席巻するに至った成功(失敗?)体験を持つ小国・日本を、快く思っていない。
この非対称性は明らかで、現に中国は、そこに(も)付け入ろうと策を弄し続けている。これは、我々日本にとって、特に注意を要する事項として喚起されるべきと思う。
余談だが、中国が西欧に対して持つ「恨み」の感情は、近隣の半島が日本に頻繁にぶつけてくるものと、よく似ている。どちらかが真似たのか、相乗効果なのか、実態の程は知らないのだが。
ただ、「恨」のようなダークなフォースで動く人は、自国の格のみならず、周囲の雰囲気をも堕として行く。それに巻き込まれず、誇りをもって、現実的に振る舞う。そういう大人の賢さが必要、かつ試されてもいるとも思うのだが。どうだろうか。
しかし現状、日本の趨勢を見ていると、かえってゲマインシャフト方向に退行しているように、個人的には感じていて。やはり残念だ。
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「中国」という捏造: 歴史・民族・領土・領海はいかにして創り上げられたか 単行本 – 2023/3/20
◆ (新書) 精神医療の現実 ― 2023/06/12 06:05
図書館で見かけて、手に取った。
個人的に、たまたま精神病院での虐待のニュースを見た直後で、そんな内容かと勝手に邪推したのだが。
全く違った。
臨床精神医学の大家である著者から見た、精神医療の現実の告発、または、問題・課題の説明、だった。
しかし、物事の見方が凄く偏っている。後述するが、精神科医という業の故か。
・ 医療界全体における精神医学のポジショニング(の低さ)を嘆き
・ 有効性がないと分かっている、古い治療法の跋扈を指摘し
・ 精神病関連の用語の、一般的な(時に恣意的な)誤用を正し
・ 精神医療の歴史を正しく振り返り
・ 近年顕著な動向を展望する
例えば、フロイトの精神分析があまり有効ではないことは、その発足の当時から明らかだったが、一般的には認知されておらず、今でも一部信者(医師)により医療行為として行われていて、弊害(被害?)も見られることを指摘している。
また、フロイトに由来する古い概念が、焼き直されて、繰り返し、今でも使われている現状を告発し、嘆いてみたりしている。
巷で、精神医療に関連すると思しき用語、アダルトチルドレンや発達障害といった言葉が「流行り言葉」として流布され、便利に誤用されている様を指摘し、本来の正しい意味を解説している。
挙句、「脳科学」という学術分野は存在しないのだから、昨今はやりのその手の言説は、全てフィクションだ、と切り捨てたりしている。
フロイトやユングが当てにならないこと、しかしその決定論的な方法論(本人が嫌がること自体が、それが真の原因であることの証拠なんデスネエ的な理屈、てか押し付け)が、今でも手を変え品を変え使われていることは、私も知っていたし、その類の言説は、意識して避けるようにしていた。
精神鑑定のいい加減さや、精神医療の用語の誤用は、うすうすは知っていたものの、本書で明確に説明されており、参考になった。麻薬と覚せい剤の違いや、ドラッグがもたらす精神疾患的な症状と病理との相関の辺りも、同様に参考になった。電気ショックの治療上の有効性は実証されており、今でも行われている、と言った辺りには、逆に驚かされた。
しかし、脳科学が「ない」とまで言い切られると、かなり違和感がある。著者は、他の章では、精神状態に対する生物学的な影響について普通に是認しているので、矛盾でもある。脳科学とは、脳内での生化学的な変化と、精神的な状態変化の相関論でもあるからだ。
著者のバックグラウンドでありキャリアは、精神医療の「学術界」なので、そこにないものは認識しない、と言っているだけかもしれない。専門性の自負ってやつだ。
ただそれは、自分が知らないものは存在しない、自分が納得できないものは間違っている、という自大思想と実質的には変わりはない。多分に著者は、その類の考え方をする人であることを、本書でしばしば自ら開陳しており、そういったバイアスを認識しながら読み進めるべき本でもある。
個人的に、私は、精神医療のそもそもの有効性自体を疑っている。
元来がフロイト・ユングに由来するその方法論は、発足からして脆弱性を孕んでいた。そこからの脱却は何度か試みられたようだが、著者が言うように、未だに成功していない。
扱う対象が「精神」という、形も持たず数値化も困難な代物で、扱う側(研究者や医師)の主観の介入が、どうしても避けられない。原理的に、客観性の担保が難しいのだ。そのことが、精神医療の構造的な足かせになっているのは間違いないだろう。
本来、医療行為の正当性は、データによるエビデンスで、エンピリカルに実証されるべき所、こと精神医療に関しては、恣意的とまでは言わないまでも、医師の主観の介入は避けられない。そして、主観の混入という「ノイズ」は、精神医学の研究から臨床にわたる一連のプロセスの各所で、現に少なくないように見える。
同じ理由で、精神医療は、新しい用語を身近な例に適当に当てはめて、レッテル貼りや免罪符として使う「商用」(そういう内容の本を書いて一儲け、のような)に、本来的に親和性が高い。
例えば、我々一般人(患者側)にとって、精神分裂病というワードが統合失語症に変わったことの意味なんて分からないし、ADHDとASDの差とか、どうでもいい。精神科の先生には、凄いことだったり大切だったりするのかも知れないが、我々には意味がない。日々のQOLに、何も響かないからだ。
一般に、カウンセリングが奨励されて久しい気がするし、精神科に気軽に行ける世の中になったのかもしれないが、鬱は周りから一向に消えない、どころか増えている実感さえある。気分的な落ち込みが、病気として認識される敷居が下がったのだから、鬱になる人が増えるのは当然の帰結なのだが、そもそも、カウンセリングという手法自体が効果がないのではないかと、私は思っている。
考えてみれば当たり前だ。精神科医にちょろっと相談に乗ってもらった程度で、鬱が解消したら苦労はしない。まあ、そういう人が一定数いそうなことは否定しないが、実質的に、「気のいい先生とお話して、少し気が晴れた気がする」程度の効能が精々ではなかろうか。よしんば、その過程で原因らしきトラウマ(そんなものがあればだが)が分かったとして、その信憑性や、治療上の効能は、やはり、かなり怪しいのではなかろうか。(それは先生の個人的な意見ですよね、程度の診察が多い気がしている。)
精神医療の形や、それを取り巻く環境や、一般的な認識は、近年、大きく変わったようだ。戦後すぐの辺りまで、それは「程度が低い、忌むべき容態」だった。今では、ある程度は「当たり前なこと」、場合によっては「あって然るべきもの」にまで、地位を上げてきた。
だがそれは、今後しばらく(ひょっとするとかなり長期間)、同様の状況が続く可能性が高いことも意味するわけで、悪い方向に換言すると、今の精神医療なんてまたすぐに変わる、今まともに信じるに値しない、とも言えるわけだ。
私が精神医療を否定するのは私の勝手なのだが、それは裏返すと、「私が精神的病理から他者により救ってもらうことの否定」でもある。だから、気だけはしっかり持ちたいと思うし、実際、大丈夫だとも思っている。(体の方が怪しいので、かえって冷静になれているように感じている。追い込まれ方が足りないだけかもしれないが。)しかし、大丈夫を自称するヤツが一番危ういというのも、また世の常だ。
本書とは別の意味で気をつけなきゃな、と自分ながら考えた。
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精神医療の現実 (角川新書) 新書 – 2023/2/10
個人的に、たまたま精神病院での虐待のニュースを見た直後で、そんな内容かと勝手に邪推したのだが。
全く違った。
臨床精神医学の大家である著者から見た、精神医療の現実の告発、または、問題・課題の説明、だった。
しかし、物事の見方が凄く偏っている。後述するが、精神科医という業の故か。
・ 医療界全体における精神医学のポジショニング(の低さ)を嘆き
・ 有効性がないと分かっている、古い治療法の跋扈を指摘し
・ 精神病関連の用語の、一般的な(時に恣意的な)誤用を正し
・ 精神医療の歴史を正しく振り返り
・ 近年顕著な動向を展望する
例えば、フロイトの精神分析があまり有効ではないことは、その発足の当時から明らかだったが、一般的には認知されておらず、今でも一部信者(医師)により医療行為として行われていて、弊害(被害?)も見られることを指摘している。
また、フロイトに由来する古い概念が、焼き直されて、繰り返し、今でも使われている現状を告発し、嘆いてみたりしている。
巷で、精神医療に関連すると思しき用語、アダルトチルドレンや発達障害といった言葉が「流行り言葉」として流布され、便利に誤用されている様を指摘し、本来の正しい意味を解説している。
挙句、「脳科学」という学術分野は存在しないのだから、昨今はやりのその手の言説は、全てフィクションだ、と切り捨てたりしている。
フロイトやユングが当てにならないこと、しかしその決定論的な方法論(本人が嫌がること自体が、それが真の原因であることの証拠なんデスネエ的な理屈、てか押し付け)が、今でも手を変え品を変え使われていることは、私も知っていたし、その類の言説は、意識して避けるようにしていた。
精神鑑定のいい加減さや、精神医療の用語の誤用は、うすうすは知っていたものの、本書で明確に説明されており、参考になった。麻薬と覚せい剤の違いや、ドラッグがもたらす精神疾患的な症状と病理との相関の辺りも、同様に参考になった。電気ショックの治療上の有効性は実証されており、今でも行われている、と言った辺りには、逆に驚かされた。
しかし、脳科学が「ない」とまで言い切られると、かなり違和感がある。著者は、他の章では、精神状態に対する生物学的な影響について普通に是認しているので、矛盾でもある。脳科学とは、脳内での生化学的な変化と、精神的な状態変化の相関論でもあるからだ。
著者のバックグラウンドでありキャリアは、精神医療の「学術界」なので、そこにないものは認識しない、と言っているだけかもしれない。専門性の自負ってやつだ。
ただそれは、自分が知らないものは存在しない、自分が納得できないものは間違っている、という自大思想と実質的には変わりはない。多分に著者は、その類の考え方をする人であることを、本書でしばしば自ら開陳しており、そういったバイアスを認識しながら読み進めるべき本でもある。
個人的に、私は、精神医療のそもそもの有効性自体を疑っている。
元来がフロイト・ユングに由来するその方法論は、発足からして脆弱性を孕んでいた。そこからの脱却は何度か試みられたようだが、著者が言うように、未だに成功していない。
扱う対象が「精神」という、形も持たず数値化も困難な代物で、扱う側(研究者や医師)の主観の介入が、どうしても避けられない。原理的に、客観性の担保が難しいのだ。そのことが、精神医療の構造的な足かせになっているのは間違いないだろう。
本来、医療行為の正当性は、データによるエビデンスで、エンピリカルに実証されるべき所、こと精神医療に関しては、恣意的とまでは言わないまでも、医師の主観の介入は避けられない。そして、主観の混入という「ノイズ」は、精神医学の研究から臨床にわたる一連のプロセスの各所で、現に少なくないように見える。
同じ理由で、精神医療は、新しい用語を身近な例に適当に当てはめて、レッテル貼りや免罪符として使う「商用」(そういう内容の本を書いて一儲け、のような)に、本来的に親和性が高い。
例えば、我々一般人(患者側)にとって、精神分裂病というワードが統合失語症に変わったことの意味なんて分からないし、ADHDとASDの差とか、どうでもいい。精神科の先生には、凄いことだったり大切だったりするのかも知れないが、我々には意味がない。日々のQOLに、何も響かないからだ。
一般に、カウンセリングが奨励されて久しい気がするし、精神科に気軽に行ける世の中になったのかもしれないが、鬱は周りから一向に消えない、どころか増えている実感さえある。気分的な落ち込みが、病気として認識される敷居が下がったのだから、鬱になる人が増えるのは当然の帰結なのだが、そもそも、カウンセリングという手法自体が効果がないのではないかと、私は思っている。
考えてみれば当たり前だ。精神科医にちょろっと相談に乗ってもらった程度で、鬱が解消したら苦労はしない。まあ、そういう人が一定数いそうなことは否定しないが、実質的に、「気のいい先生とお話して、少し気が晴れた気がする」程度の効能が精々ではなかろうか。よしんば、その過程で原因らしきトラウマ(そんなものがあればだが)が分かったとして、その信憑性や、治療上の効能は、やはり、かなり怪しいのではなかろうか。(それは先生の個人的な意見ですよね、程度の診察が多い気がしている。)
精神医療の形や、それを取り巻く環境や、一般的な認識は、近年、大きく変わったようだ。戦後すぐの辺りまで、それは「程度が低い、忌むべき容態」だった。今では、ある程度は「当たり前なこと」、場合によっては「あって然るべきもの」にまで、地位を上げてきた。
だがそれは、今後しばらく(ひょっとするとかなり長期間)、同様の状況が続く可能性が高いことも意味するわけで、悪い方向に換言すると、今の精神医療なんてまたすぐに変わる、今まともに信じるに値しない、とも言えるわけだ。
私が精神医療を否定するのは私の勝手なのだが、それは裏返すと、「私が精神的病理から他者により救ってもらうことの否定」でもある。だから、気だけはしっかり持ちたいと思うし、実際、大丈夫だとも思っている。(体の方が怪しいので、かえって冷静になれているように感じている。追い込まれ方が足りないだけかもしれないが。)しかし、大丈夫を自称するヤツが一番危ういというのも、また世の常だ。
本書とは別の意味で気をつけなきゃな、と自分ながら考えた。
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精神医療の現実 (角川新書) 新書 – 2023/2/10
◆ (単行本) 世界はシンプルなほど正しい ― 2023/06/18 07:29
図書館で、たまたま目が合ったので。試しに読んだ。
内容は、「シンプルに考えると真実にたどり着ける」となろうか。
著者は、それが正しい思考法だと言いたいらしい。
実際、その方向性に(西欧由来の)科学は進んできているし、それ故に出せた成果で満ち溢れている、というのが著者の主張だ。
そのエビデンスとして、西欧の考え方のベースの変遷を、地動説(天文学)、力学、進化論、量子論などを実例に、時系列で辿っている。
その内容は、よくある「世界史(実質的にはヨーロッパ史)」の一断面で、珍しいものではない。
本書で感心したのは、著者の知識の多さであって、本書の内容ではなかった。
私は、著者の考え方には与しない。
単純に考えた方が分かりやすいことがある、というのは否定しない。
しかしそれは、
「所詮、我々は単純なことしか理解できない」
ということと、
「単純で分かり易い件が、それ故に成果として派手に見えている」
ことを、区別しない。
少し前に、複雑系が流行ったことがあったが。複雑なものを複雑なまま理解(丸呑み?)する、というのも「あり」だし、複雑さを楽しむ余裕があってもいいと思う。
本書の主張は参考程度かと感じた。
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世界はシンプルなほど正しい 「オッカムの剃刀」はいかに今日の科学をつくったか 単行本(ソフトカバー) – 2023/3/23
内容は、「シンプルに考えると真実にたどり着ける」となろうか。
著者は、それが正しい思考法だと言いたいらしい。
実際、その方向性に(西欧由来の)科学は進んできているし、それ故に出せた成果で満ち溢れている、というのが著者の主張だ。
そのエビデンスとして、西欧の考え方のベースの変遷を、地動説(天文学)、力学、進化論、量子論などを実例に、時系列で辿っている。
その内容は、よくある「世界史(実質的にはヨーロッパ史)」の一断面で、珍しいものではない。
本書で感心したのは、著者の知識の多さであって、本書の内容ではなかった。
私は、著者の考え方には与しない。
単純に考えた方が分かりやすいことがある、というのは否定しない。
しかしそれは、
「所詮、我々は単純なことしか理解できない」
ということと、
「単純で分かり易い件が、それ故に成果として派手に見えている」
ことを、区別しない。
少し前に、複雑系が流行ったことがあったが。複雑なものを複雑なまま理解(丸呑み?)する、というのも「あり」だし、複雑さを楽しむ余裕があってもいいと思う。
本書の主張は参考程度かと感じた。
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世界はシンプルなほど正しい 「オッカムの剃刀」はいかに今日の科学をつくったか 単行本(ソフトカバー) – 2023/3/23
◆ (単行本) 賢い人の秘密 ― 2023/06/18 09:26
挑戦的な題名だ。
裏読みすると、「賢くないキミに教えてやろう」とも読める。
しかしこれは、有用な本だった。
「賢い」とされる考え方の「構造」を明らかにせんとしている。
例によって、原題の方が内容に正確だ。
THE SIX SECRETS OF INTELLIGENCE
知性の6つの秘密
我々が「賢い」と感じるものは、知識ではなく、知性である。
どういう知性が賢いのか?
優れた知性には、特有の型がある。
それを理解し、意識して、実践できれば、誰でも賢くなれる。
賢い人の思考パターン
それを、6つのアスペクトから解き明かし、その応用についても触れている。
本書の全てを、諸手で賛成はできないかもしれない。
が、大変に参考になることは確かで、少なくとも有用な刺激になる。
懸念もなくはない。
ここに書かれるのは賢い人の例なので、ある程度は賢い人でないと理解が覚束ない可能性はある。
本書の内容を、部分的にでも共有できる程度のレベルでないと、「ああ、あれか」式に、自分の経験や信念に則った形で、すんなりと捉えられない。端的に、「ピンと来ない」で終わってしまう。
全くの初見だったり未経験のものに、人は共感しにくい。
スゲエな、と感心するのが精々だ。
例えば、飛行機の空中戦を地上から眺めているようなものだ。感心はすれ、その高みにまで登ることはないし、実感として理解することもない。
という私の心配は、きっと杞憂だ。
誰しも、程度の差はあれ、自分は賢いと、心のどこかで思っている。
その意味で、万人におススメできる。
もっと賢くなったり、少なくとも、スッキリ整理できたりするだろう。
現に、地を這う愚者であるこの私が、共感できる部分は結構あった。
何かを意味するということに、どんな意味があるのか。
真実が一つだと、なぜ言い切れるのか。
(なぜ、真実は複数あってはいけないのか?)
本書は、そういった私の積年の疑問に、答えてくれた。
哲学というのは、自分が何を考えているか考えることだ。
とは私の理解だが、同じことが本書にあって驚いた。
皆様なら、さらに有用に読めるだろう。
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賢い人の秘密 天才アリストテレスが史上最も偉大な王に教えた「6つの知恵」 単行本 – 2022/12/8
裏読みすると、「賢くないキミに教えてやろう」とも読める。
しかしこれは、有用な本だった。
「賢い」とされる考え方の「構造」を明らかにせんとしている。
例によって、原題の方が内容に正確だ。
THE SIX SECRETS OF INTELLIGENCE
知性の6つの秘密
我々が「賢い」と感じるものは、知識ではなく、知性である。
どういう知性が賢いのか?
優れた知性には、特有の型がある。
それを理解し、意識して、実践できれば、誰でも賢くなれる。
賢い人の思考パターン
それを、6つのアスペクトから解き明かし、その応用についても触れている。
本書の全てを、諸手で賛成はできないかもしれない。
が、大変に参考になることは確かで、少なくとも有用な刺激になる。
懸念もなくはない。
ここに書かれるのは賢い人の例なので、ある程度は賢い人でないと理解が覚束ない可能性はある。
本書の内容を、部分的にでも共有できる程度のレベルでないと、「ああ、あれか」式に、自分の経験や信念に則った形で、すんなりと捉えられない。端的に、「ピンと来ない」で終わってしまう。
全くの初見だったり未経験のものに、人は共感しにくい。
スゲエな、と感心するのが精々だ。
例えば、飛行機の空中戦を地上から眺めているようなものだ。感心はすれ、その高みにまで登ることはないし、実感として理解することもない。
という私の心配は、きっと杞憂だ。
誰しも、程度の差はあれ、自分は賢いと、心のどこかで思っている。
その意味で、万人におススメできる。
もっと賢くなったり、少なくとも、スッキリ整理できたりするだろう。
現に、地を這う愚者であるこの私が、共感できる部分は結構あった。
何かを意味するということに、どんな意味があるのか。
真実が一つだと、なぜ言い切れるのか。
(なぜ、真実は複数あってはいけないのか?)
本書は、そういった私の積年の疑問に、答えてくれた。
哲学というのは、自分が何を考えているか考えることだ。
とは私の理解だが、同じことが本書にあって驚いた。
皆様なら、さらに有用に読めるだろう。
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賢い人の秘密 天才アリストテレスが史上最も偉大な王に教えた「6つの知恵」 単行本 – 2022/12/8
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