「 私だけの神 」 ― 2012/01/14 07:20
近代的な神と人間の係わり合いについて論じる
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訳者のあとがきによると、題名の「私だけの」というのは訳としては多少過激で、本来は「固有の」程度の意味らしい。
著者は、この手の、世相を先取りしたような著書(世の中こう動いているよね、のような)を多数なしているベテランらしい。
近年、西欧では宗教的なバックグラウンドを持つテロやデモなどの活動の激化を受けて、宗教のありかたを論じる書物が相次いでいるようだが(以前取りあげた 「宗教とは何か」 とか)、本書もその流れにある、とか。
しかし、ドイツ人が書いた文章だ。やたらと重くて回りくどく、難しくて、わかりにくい。(しかも高い。岩波・・。)
一回キリスト教を「裏切った」(ルターの件)せいなのか妙に屈折してもいて、さらに、ユダヤ人のお話から始まる。
言っていること自体は、そんなに難しくないと思う。
いくら「絶対無二の」神といえど、人間に認識、つまり頭の中に形作られる過程で、ある程度の「テーラーメード化」は避けられず、従って、厳密には「ゆらいでいる」。ご都合の良い「利用」や「我田引水」もあり、「宗教」と「宗教的なもの」は分離、かつ世俗化、個人化に従って、矛盾の露呈が深まっている。一方で、昨今の、唯一絶対的な信念が相まみえる情勢下、信頼に耐えるには・・・云々。
宗教というのは、変な例えだが、蟻塚(Wikipediaは こちら )のようなものだと思う。
初めの土台は確かにどこか優れていて、だからこそ後進が集まって来る。そいつらが、アレやコレやを塗り重ねることで、次第に大きくなっていく。出来上がるのは、ゴチャゴチャと入り組んでわかりにくく、硬くて暗い、巨大な構造物だ。たまに、「これでは良くない!」などとキバる根性者が現れて、壁をブチ壊して次のを新たに作り直したりするのだが、できあがるのは、見た目は違うが、実質的にはほとんど同じの、やっぱり蟻塚だ。で、その外にいる我々(不信心者)は、多くの蟻塚の住人たちが「オレが正しい!」と罵りながらいがみ合うのを、途方にくれながら眺めている、というわけだ。
筆者の視点は、その蟻塚の内側にある。基本的に、キリスト教の当事者(今や追われる側)として、今までこうだったから/こうだったのに、どうすべきか/どうしよう・・・・といったプロットに留まっているようだ。
「オマエ、わかってねえなあ」と上から目線で他人をせせら笑っていた連中が、時に従い自信も勢いもなくすうち、ボクら正しくなかったかも、といわば負けを認めつつも、まだ一応、重鎮だったりもするので、こうせねばならない or してはいけない、のような議論をウダウダ続けている、ようにも見える。
なにせ、「我々の認識が唯一正しい」と、あんなに押し付けがましかった西欧が、複雑性や多様性を好んで論じ始めているのだ。
そもそも、唯一絶対の(従って排他的な)神や宗教でもって、一般性や普遍性、融和を説こうということ自体に、無理があったと思う。自分の神を一方的に押し付けるだけでは、その目的たる普遍化とは逆に、かえって分断をもたらしてしまう。
ドイツ人のように厳密な連中は、原理原則論が大好きだ。迷惑だろうが場違いだろうか、お構いなし。従業員が死にそうでも、株主の利益を優先すべきだ、などと平気で言い出しかねない(しかも「良心に従って」)。当然、周囲からは反発を食らう。
しかし、議論の根本が「絶対唯一」という概念そのものだったりするので、彼らの反論は妥当性を欠いたり、言えば言うほど、いい訳じみたりする。
高尚な、普遍化の理念はどこへやら。
そのうちに、自分のクルマをけなされて怒る人(けなされたのは自分でなくてクルマなのに)のようになったり、隣人相手に争い始めたり(オメエ聖書のヨミが足んねえぞ、のような)、結局、アナタ自分の好きにやりたかっただけなんでしょ?となじられて凹んだりする。
数や値段、力で負けるようになると、なおさらだ。
まあ仕方が無い。西欧人も人間だ。
もし「お題」が、普遍化であり共有化であるならば、神道や仏教、儒教的なものを、ずらっと並べて安穏としている我々日本人は、ある種「エキセントリックなお手本」になるかもしれない。しかし、我々が成り立っているのは、ある意味「いい加減だから」であって、厳密なドイツ人には合わないだろう。
宗教も、他のもの、例えば政治や経済と同様に、時に従い、立ち位置や姿を変化させる。他を取り込んだり相対化したりで、影が薄くなったり、範囲が狭まることもある。そこいらへんを、致し方ないね、と諦められず、そもそも、そういうものだった、と納得もできない。で、結論は出ずに、つらいね、のような話になってしまう。
要するに、信者のことは、不信心者にはわからない、ということかもしれない。傍から見ていると、球の表面をずるずる回っているだけで、目的への距離はちっとも縮まっていないように見える。
残念ながら、私のような部外者(不信心者)には、アピールはあまり無かった。(そうなの、大変だねー、で終わってしまう。私が冷淡、またはノホホンとしているだけか。)
私のライフワーク「神って何だろう」の探求の役にも立たなかった。
余談だが、こういう、多元的、多角度の論陣は、伝達ツールとして「文章」はそぐわない。そのまま展開してしまうと、入り組んでわかりにくいのだ。例えば、プレゼン形式などを駆使した方が、まだマシなのではなかろうか。(我々の認識の多次元性をそのまま伝えうるツールを、我々はまだ持っていない、ということなのだが。)
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