読書ログ 十字軍物語 3 ― 2016/09/04 10:05
前回取り上げてから 5年も経っていて、自分でも驚くのだが。
やっと全巻(3巻だけだが)に目を通した。
ちゃんと出た当時に買ってはいて、でも一度読むのが途切れると、再び手がつくまで本棚の肥やしとなるという、よくあるパターンにて…。
でも本書の場合、他にも「理由」・・・いや、「言い訳」がある。(笑)
まず、本書は、後になるほどボリュームが増える。最後の3巻目は500ページというブ厚い本で、寝床で仰向けで読むと、腕が疲れるほどだ。
次に、「つまらない」。これは少し語弊があるが、いつもの塩野節、「いい男」デキる男の目線から、時代を動かす爽快感を、主人公と一体になって読ませる感じとは、少し違っている。1巻目には、「デキる男」がいたので、多少それに近かったのだが、それ以降は、登場人物が小粒になることもあり、もっぱら、著者の目線での時代の流れが描かれる。
無論、それがつまらないわけではないのだが、やはり、時代の気分が反映されて、「あらあら、ダメね」的な記述になってくる。勢い、従前の高揚感とはかけ離れたものとなってしまう。(どちらかというと、こちらの印象に近くなる。)
ま要するに、話が長くて暗いから、読むのに時間がかかりますよねと、そういうわけだ。
ただ、読後感は悪くなくて、期待通り、いや予想以上に、宗教について、ちゃんと書かれていた。これは収穫だった。(以前から、塩野先生が書いた宗教には興味があったのだ。)
十字軍の話なので、登場人物は、バチカンを初めとするキリスト教(原理主義?)をメインに、敵側であるイスラム教徒(今とさして変らない印象)が配置される。時代(時間)に従い世代は変り、優劣は行き来し、でも状況は一進一退で、さして変わらなかったりする。
どうしてか。
神が望んでいるはずなのに。
(↑登場人物の粗方は、本心でそう思っていたりする。)
それを横から描くのは、神を絶対視しない、純粋な現実主義でものを言うのに罪悪感がかけらも無い東洋のオバサマだから、それはもう、にべもない。(笑)
血を流せ!異教徒を殲滅せよ!!と金切り声を上げる聖職者が成しえたことは、ほとんどなかった。結局は、法王庁の精神的な圧力などをものともせずに、現実を冷静に見つめて対処したゴリゴリのリアリストと、私欲の実現の最大化のために優秀な能力を集中しえた、吐き気のするような利己主義者の両極端が、世の中をドライブしていた。
それは、何で神(を信じている人)ってそうなの?と素朴な疑問を抱き続ける、極東の島国のオッサン(私)にとっては、妙な説得力と納得感があった。
うん、頑張って読んだ甲斐があったな、と。(笑)
しかし思うのは、これ、西欧の識者(十字軍や聖戦といった辺りに当事者意識がある皆様、つまり、「同罪」なんだが認めたくない人々)には、どんな評価になるんだろうか。どなたか、ご存知でしたら教えて欲しい。
Amazonはこちら
十字軍物語〈1〉
十字軍物語〈2〉
十字軍物語〈3〉
読書ログ 生きて帰ってきた男――ある日本兵の戦争と戦後 ― 2016/09/11 12:11
シベリア抑留の後に帰国し、現在もご存命の方からの聞き取り調査をまとめたものだそうだ。(以下、便宜的に「語り部氏」と呼称する。)聞き手でもある著者は近代歴史学の学者さんで、語り部氏のご子息である。
基本、語り部氏の生涯を、時系列に追うだけの内容なのだが、収録される期間は戦争の前後のみではなく、その数代前からお話が始まる。これは、語り部氏の境遇に影響を及ぼす遠因から挙げておかないと、全体の流れが見えなくなるからで、例えば、北海道で生まれたが本籍は新潟だった、というその生誕時の境遇が、ご先祖から連なるどんな帰結でもたらされたのか、当時の社会情勢も含めて記述される。その後、日本が戦争に突入し、敗北し、立ち直り、今に至るまでの世相の流れが、市井の一人の目から見た情景として、綴られていく。
語り部氏は、本書では「下の下」と本人が仰られているが、社会的な基盤や地位には恵まれなかった方のようだ。それだけに、時代に流される度合いは高かった。特定のポストや立場は、持っていたり、与えられたりするものではなく、努力や運などで、それを得られる「こともある」だけだったから、モノの見方や考え方は、公平で現実的、つまり冷徹で、かつ、驚くほど正確だ。さらに書き手の方も、学者さんであるせいか、不幸や断絶なんかをドラマやポエムにして訴求みたいな、ありがちな意図が全くなく、事実を事実として淡々と重ねる記述が続く。(一部、著者の私見も挟まるが、一見してそれと分かるので、誤解や混同を呼ぶ余地は小さい。)
我々庶民の大多数と同じ立場から、特定の立場や視点に拘泥することなく、歴史(同時代を生きているので、世相、または「社会情勢」の方がしっくり来るか)の荒波に翻弄される、現場の生の情景を目の当たりにできる。これは、語り部氏と同じド庶民であり、かつ、世相(人々の考え方や感じ方)の移り変わりに興味を持つ、私のような読み手にとっては、得るものが大きかった。
普段、我々の暮らしのあり方は、当たり前/常識として共有される感情、考え方、物の見方や感じ方、雰囲気なんかに大きく影響されているのだが、当たり前だけに意識もされず、普通は書き残されたりもしないものだ。しかし、そういった常識や文化、世相などは、地域や国によって大きく異なるし、同じ国でも、時代に従い大きく変わる。地域性や時代性というのは、そのあたりにこそ宿るものなのだが、記録されないが故に、これを外から(歴史軸で言えば「後代から」)把握・理解することは、本当に難しい。時代を生きた本人が、何を感じ、考えていたのかを語る生の情報というのは、だから実に貴重なのだ。
少し意外だったのは、この現場証人の感覚が、ほとんど想像の範囲内だったことだ。
例えば、先の戦争に突入するにあたり、庶民そのものからして、銃を持って戦地に赴くことを望んだようなことが言われることもままあるが(あの当時は、お国の為に死ぬのが当たり前だった、そういう雰囲気だった、のような)、実際の所、そんなわけでは全くなかった。
その日一日を食うに精一杯の庶民にとって、国の上層部が何を考え、画策しているのかなど、ほとんど関係がないことだった。だから、当時の日本が戦争に向かったあり様というのは、日本という国が、全体として、そういう境遇に徐々に落ち込んで行ったと、そんなことだったのだろう。
そして、それをもたらした仕組みというのは、よく言われるように「無責任の連鎖」だったように思われた。軍隊は、つまる所「お役所」で、権限を持つ者の粗方は、上からの命令を(自分に都合よく解釈した上で)下に強制するだけの小役人そのものだった。実効性、つまり、何の役に立つのか、どれだけ効果があるのか、本当はどうすべきかについて、真面目に考え、対処しようとした人物というのは、その「命令の伝言ゲーム」の列の中では、本当に稀だった。だから、現場で回るのは「任務」ましてや「理想」ではなく、いつもの「苦しみ」が、惰性のようにただ空回りするだけだったのだ。
シベリアもある意味状況は似ていて、ソ連でも軍隊はお役所だったから、日本との契約にあった「捕虜を労働力として提供することで賠償の一部と成す」ことを履行すべく、機械的に発せられた命令が履行されただけだった。ただ、不幸なことに、ソ連には、捕虜をまともに働かせる仕組みも予算も思慮もなかった。だから、現場がそれぞれに、言われたことを勝手に解釈・適当に履行した。その結果が「あれ」だったと、そういうことらしかった。
捕虜の管理を現場で担当した兵士にもいろいろいて、よく言われるような、権限を傘に着て悪さをするような連中も少なくはなかったようだが、それでも「日本軍よりは遥かにマシだった」。部隊によっては、軍の頃の階級を傘に来た日本人捕虜同士の横暴や差別の方がより深刻だった、とある。
ソ連兵にも、プライベートでは軍の階級を外して公平中立に振舞う傾向はあって、それは日本兵にとって、かなりの衝撃だったようだ。これは多分、同じ時期に、本土で一般の日本人が進駐軍に感じていたカルチャーショックと、かなり似ていたのではないかと思うのだが。何故だろうか、それが共産主義という箱の中に入れられると、日本人捕虜の間で階級闘争を強いる教育(見た目は文革にそっくり)に化けるというのは、ちょっと不思議に感じられた。まあ、アメリカの方も、レッドパージで、感情的な差別主義に陥るのは同じだったから、権威主義的な自由主義というは、所詮はこういう堕ち方をするんだと、そういうことかも知れない。
そういったダークサイド(無体な動き方)は、その後の日本人も大差はなくて、日本人が勤勉だったなんて本当は全くの嘘っぱち、適当なポストに収まって、文句ばかりで働きがないくせに給料だけは要求するという「お役人的な生き方」は戦後も構造的に保存されたし、憧れの対象(理想?)でもあり続けた。食うに精一杯の庶民は、精一杯働かざるを得なかっただけなのだが、それを「勤勉」と称してみせる辺り、何となく、お役人的な卑小な意図の臭いが、漂っているようでもある。
それでも、世の中に、どこか成長分野があれば仕事はあったし、成長分野が移れば「やり直し」もきいた。昔は、世の中の仕組みや現状についての情報なんてなかったし、社会的なセーフティネットどころか、サポート自体が全くなかった。自助努力しか手段がなかったわけで、でも少なくとも、自助努力の場だけはあったから、希望だけは何とか持てた。食うや食わずのギリギリの所でも、希望さえあれば何とかなる。だからこそ、今までやって来られたんだ。
それが今や、物も情報もあるのに「やりようが無い」状況は切羽詰る一方で、人々には希望がないから、見たいもの、都合のよいものしか見たがらないという悪循環に陥っている。「苦しみだけが回る」のは戦時中と同じで、しかも展望がない分、今の若い人はかわいそうだな。
語り部氏は、そう語っている。
私自身、子供達に、希望じみたことがろくすっぽ言えない・・・どころか、自分の方も鬱屈の度合いの強まりを自覚しているのを思い出して、最後の最後に、こんな所で語り部氏とシンクロしてしまうというのは、どうにも不幸だなと。そう感じた。
一番残念だったのは、今の日本の世相で気になっていること、助け合わずに足を引っ張り合うこと(震災や大雨などの天災に苦しむ人々は、公的援助と自助努力にお任せ)とか、ルールを激しく強制する一方で、ルールそのものの内容やありようを議論することをタブー視すること(コンプライアンス×自己責任=いじめ)なんかは、その深い歴史でもって、日本人に深く刻まれた特徴なんじゃないかと思えたことだ。
西欧では、人種や文化文明、宗教などで群れに分かれていがみ合うのがデフォルトで、その争い方の移り変わりがこれ即ち歴史なわけだが、日本は、比較的にも均一に近い群れの中で、わざわざ自分達で階級を作って、差別しあってきた歴史がある。士農工商→軍隊→中央官庁ヒエラルキーてな感じで、その「差別の作法」は、適当に宿替えをしながら、今でも我々の中に生き続けているのではないのか。本質的な対応からは目を背けて、とりあえず隣の奴の足を引っ張って、喜び、安心したがる性向は、我々日本人の「血」なのだろうか?。
本書に戻るが、無論、この本にあるのは「一個人の感想」であって、世間一般の感情と言えるのかには議論があろう。しかし、本書の場合は、現在に連なる時間的にも近い情報だし、一般化は、読者の課題であり、かつ、十分に可能でもある。そうやって、一般化の作業を通して、語り部氏の経験を、自身の身に活かせる人が想定読者だろうし、そういう人は無論、そっち方向に抜け出したい人にこそ、お勧めしたい本だと思う。
逆に、言われたことをそのまま信じたいタイプの人には、一個人の生涯を淡々と追う(だけ)なんて「ただの苦行」だろうし、他人のアラを探すことで自分を優位に置くネタを探したい(最近良く見る)タイプの皆様には、もっと恣意的・感情的に書かれた歴史解釈本なんかが他にたくさんあるので、そちらの方が好適だろう。
Amazonはこちら
生きて帰ってきた男――ある日本兵の戦争と戦後
読書ログ 国際秩序 ― 2016/09/19 16:33
外交関連のノンフィクションは好きで、よく読む。
外交というのは、世界で有数の優れた頭脳が、歴史も背景も価値観も異なる相手と、丁々発止のやり取りを通して解決を模索する場でもある。それは、我々人間が一般的に持つ問題と、その解決への模索を、最も端的に凝縮して見せてくれる場でもある。
そして、キッシンジャー博士である。戦後の国際関係への影響力はもとより、現役を退いた後も、それを最も間近に見続け、把握し続けることができる立場にあった人物だ。記憶は細部まで鮮明、かつ再構成してストーリー化して見せてくれる能力でも優れている。
その人物が語る「国際情勢」だ。興味をそそられないわけはない。
が、結論から言うと、さほど大それた本ではなかった。
本書の構成だが、まず、米国が全世界的な影響力を強める以前、つまり、大国といえど、各国がその影響力を、主にその周辺国にのみ及ぼしていた時代、国家間をまたぐような大きな動きは、特定のイベント(ローマやモンゴルなど)に限られていた時代の歴史的な動きを、ヨーロッパ、イスラム・中東、アジアなどの各地域ごとに描いている。
続いて、二次大戦以降、大国となった米国が、全世界的に及ぼしてきた影響について、つまり、米国近代外交史について、多少細かく追っている。
最後に、それらに通底すると思しき概念を大雑把にまとめた後に、今後の成り行き、博士が感じる懸念について、しれっと触れて終わっている。
これは、外交ではなく、歴史を扱った本だ。
そして多分、教科書のように読める本ではない。これは、博士が考える(博士が情報を繋げてストーリー化した)歴史観であって、これを真実や正解とできるのかは、議論があるだろう。
例えば、博士が日本の歴史(日本が何を考えていて、どうしてそういう考えを持つに至ったか)について書かれている件などを読むと、なるほど、そういう解釈(または理解)もあるもんかなと、そんな感慨を持つ。
全体を通読しても、古今東西の国家間の関わりと、その表裏に宿る観念を、せめてそれぞれが繋がる程度の詳細さでは記述していて、量として膨大な上に、何せ頭ったまのいいユダヤ人の博士が書いているので、細かすぎる程に、かなりややこしかったりもするのだが、しかしそれでも、各ディティールが本当に正確かと言うと、そうでもないんだろうなあと、そんな感じがした。
それは、博士の実力や技量のせいではなく、国際情勢の歴史を本一冊にまとめようという企画自体に無理があったのかもしれないのだが。(全てを詰め込むわけには行かない、つまり、落ちるデイティーるもある由。) 個人的には、何となく、博士のものの言い方(書き方)って、昔から、こんな感じだったようにも思った。
それをユダヤ人気質と評していいのかは分からないのだが、「部外者」にも分かるように、一応の配慮はしてくれるものの、救ってもらえるのはやはり博士に近い範囲だけで、その外側は「手に負えん」という感じで、切って捨てるのに躊躇がない。(僭越ながら、お年を召して、この傾向が強まっているようにも感じる。救わんとする配慮に、エネルギーが回っていない印象。) 一応、中立的な立場から物を言うように、言葉を慎重に選んで語ってはくれるのだが、結果として、またそれが回りくどくて、著者の真意を察することを読者に求める、無言の圧力のようにも感じてしまう。
博士が示した断片を、読者自身が繋げるべきという圧力のようなものは、本書に通底しているようだし、少なくとも、この程度は「ああアレね」と読み下すレベルの予備知識は要るだろう。
なのだが、必死に追いついて読み終えたところで、分かるのは、博士の私見でしかないし、結論の方も、「きっとこれからは、こんな課題に立ち向かうことになるであろう」てな感じの「方向性」だけだったりするので、厳しさの後に、寂しさが残ってしまうというのも、またユダヤ的ではある。
多分だが、この本は、何かしら課題なり疑問なりを持っていて、その答えや解決を模索している人にとっては、肩透かしになりかねないだろう。
本書を通読しても、キッシンジャー博士が考えるWorld Order が何なのか、おぼろげな全体像は見えるかも知れないが、それは、あなたの、国際秩序に関する疑問に、明確に答えてくれるとは限らない。考える材料として使えるのが精々で、だとすれば、疑問は、課題として残り続けるだろう。
まあ、そんなわけなので、例えば、
国際司法の判決を、国連の常任理事国が無視するってどうなのー
とか、
戦争を放棄した先進的な憲法は国際的な影響力に使えないのー
とか、
確か、元ペルーの大統領には日本国籍があるって司法判断があった
ような気がするけど、今さら、野党の党首候補の2重国籍疑惑が騒が
れるのってどうなのー(これは国内問題か、笑)
とか、
そういうお話とは関係がない。
何となく全体的にボヤッと、うーん、やっぱ、ヤッベーなあ・・・と、それだけの話だ。
キッシンジャー的な世界観を、知識の一つとして抑えておきたい人にはオススメだが。(かくいう私も、少なくとも勉強にはなった。)
全く関係ないんだけど。
キッシンジャー博士、長生きだね。(今年93歳。)
Amazonはこちら
国際秩序
原書もございます。
World Order: Reflections on the Character of Nations and the Course of History
読書ログ 世界ナンバーワンの日本の小さな会社 ― 2016/09/22 15:48
どうして、この本を手に取ったのか。
たぶん、どこかの書評で見かけたのだと思うのだが。
どうも、「また引っかかっちゃった」ようだ。
書評トラップ・・・懲りないらしい。(笑)
内容は、最近良くありがちな、「小規模ですけど真心をこめて経営に当たった結果、成功してしまいました」を礼賛する本だった。
まず、具体例を2例、事業の立ち上げから成功までの道のりを、比較的詳細に取り上げる。(礼賛すべきポイントを散りばめたり繰り返したりも、ちゃんと為されている。)
次に、その秘訣とやらを、箇条書きに挙げてサマリーにしている。
表題そのままに、何かしら起業のようなことを考えている皆様に対して、参考にしてもらう、激励する、のような用途で書かれたと思しき本なのだが。半ば予想されるが如く、実地の役にはほぼ立ちそうにない「読み物」であって、具体的な効能としては、むしろ「読んでほっこり系」かなと思われた。
実例として上がっている経営者の、事業に対する姿勢は真摯で、物語として読んでいるだけなら、意義を申し立てる余地はないだろう。(例えば、競合相手に言わせたりすれば、いろいろ出てくる可能性はあるのだろう・・・というのは、私の現実的な邪推であって、本書の意図からは外れる。) また、いわゆる先見の明とか、成功できる「隙間」を嗅ぎ分ける類の能力は、人並み外れた方々だ、というのも確かなのだろうと思う。
だが、そんなものだけでは、ビジネスは成功しない。というのは、どんな会社のどんな事業であれ、その最先端(or 最端部)で戦った経験をお持ちの皆様なら、ご納得いただけると思う。
成功には、ある種の幸運が必要なのだ。しかし、実際に成功した当人たちは、それを、努力、実力、人柄、才能、そんなものの故だと考えがちで、実際に、そう伝えたがる。
それが、思い上がりであったり、後知恵であったりするのは、例えば、彼と全く同じ事を今繰り返したとて、同じ結果が得られるわけではなかろうことが、如実に示している。
「二匹目のドジョウはいない」のは、ビジネスの世界では当たり前で、そういうことを言っているのではない。妥当性の検証が為されていないことの、端的な例示のつもりだ。
他人の成功を参考にするには、エッセンスや本質のようなものを抽出して、自分の方向性に合わせて応用するスキルが必要なのだが、その「本質語り」のための上位概念化が陳腐だと、従来の起業指南書と同じような言葉に陥ってしまう。抽象化ゆえに焦点がぼけてしまって、結局は、いつものセッキョーかお念仏と同じと。そんな辺りに着陸している例は多いし、本書も、その例に漏れない。
要するに、日本版の読みやすい これ という感じで、少々残念な読後感だった。
これは、起業せんとする、あなたのリスクを減らすものではない。
なんてのは、荒波に漕ぎ出さんと覚悟を決めた皆様には自明だろうから、余計なお世話だとも思うのだが。一応。
類例は、この辺かな。
計画と無計画のあいだ
マイクロモノづくりはじめよう
Amazonはこちら
世界ナンバーワンの日本の小さな会社
読書ログ 究極のエンジンを求めて ― 2016/09/25 06:57
ずいぶん古い本だ。1988年の刊。
図書館で見かけて、題名借りした。
著者は、自動車会社でエンジン設計を担当し、1978年に退社して評論家に転じたという、古参のエンジニアである。
当時のクルマのエンジンについて、良し悪しを技術的に論評した記事が並ぶ。ページの造りは、A4版の二段組に、細かい活字とグラフや図表で、結構なボリュームがある。初出はモーターファン誌の連載記事だそうで、副題の「毒舌評論」の通り、オジサマがワルノリ気味に、いろいろと書いている。かなり専門的な書きっぷりで、読者にも、それなりの知識レベルを要求する。月刊の自動車工学や機械設計の読者あたりが本来の対象らしいが、そうでない人々にも「勉強にはなる」ペースであり、読んでいて息切れする感じではない。
とはいえ、30年近く前の本なので、エンジン関係の技術トピックといえば、給排気の慣性設計とか、シリンダーブロックや燃焼室の形状設計、加給など、機械設計に寄った所がほとんどだ。制御技術が本格的に立ち上がる前なので、そっちの話はほとんどない。(今見ると新鮮かも。)
いや、お話としてはそれ以前で、エンジン設計には哲学がなきゃいけないとか、技術の革新より儲かりゃいいのかのような批判など、精神論的なお話のウエイトも小さくない。
商売優先で、ユーザーの利益(乗る楽しみの追求)は二の次というメーカーの姿勢を糾弾する辺りは、結構共感できるのだが。この著者は、メーカーの技術を評価できないユーザーの方も、にべもなく一刀両断にしていて、当ブログなんぞよりも、よほど辛らつ、かつ奔放である。
多少のシモネタも交えたオジサマギャグも要所要所で炸裂しており、お話を楽しくしよう、盛り上げようという意図はわからんではないのだが、どうも、「エンジニアの話は面白くないの法則」にも忠実に則っておられていて、少々お寒い雰囲気を醸してしまっている。また、もともとが単行本化を考えていなかったのか、著者がお歳で忘れっぽいのかわからないが、同じ内容の繰り返しが結構あって、くどさを感じることもままある。
しかし、こうやって当時の技術を俯瞰してみると、全く著者の批判の通り、本当に周辺技術ばっかりで、エンジン技術の核心にかかわるようなものは皆無だ。どちらかというと、「とりあえず、やってみました」や、「何とかなりました(今だけは)」のような、その場しのぎの印象のものが多い。
一応、本書はバイクのエンジンも範疇に入っていて、例えば、巻末近くに、ヤマハFZ750の5バルブエンジンなども取り上げられているのだが、NRの8バルブエンジン(笑)を引き合いに、こっちよりはマシかな?などとやった後、多バルブ化の一般的な評論をしている。
全般的に、「いつまでもつ技術だろうか?」といったトーンの論調が多いのだが、その危惧の通り、この本にある当時の技術のほとんどが、もう今では完全に廃れていて、お目にかかれないものばかりだ。
本書刊行の当時、著者は65歳で、取材で訪れるメーカーの若い技術者は孫みたいなものだったようだ。質問にもろくすっぽ答え(られ)ず、技術的な情報も出し渋るメーカーの対応におかんむりで、宗一郎はもっと本気でやってたぞ!(どこのメーカーかわかっちゃうけど)、継承ができておらん!的な文句も散見される。まあ、メーカーにしてみれば、見返りが見込めないのに取材に協力する理由もない故の、ドライな対応だったのだろうとは思うのだが。
そして現在、それからさらに数世代を下がった自動車開発の現場は、トレンドの主導役を、電子制御に完全に譲り渡して久しい。(エンジン技術の本懐たる熱効率、燃焼コントロールは、直噴化で「終わった」感じすらある。) さらに、エンジン自身も、半身をモーターに乗っ取られて、キマイラみたいになってしまった。
他方、経営トレンドの方も、自動車の性能自体が、ユーザーが使いきれる範囲を完全に逸脱していて、使えもしないハイエンド域での微妙なニュアンスにプレミアを払ってくれる優良(有料?)顧客に、儲けのほとんどを依存するに至っている。技術そのものの意味よりも、「どうスマートに売らんかな」の方に焦点が行ってしまっており、結果として、著者が憂慮した、そのものの方向に進んでしまった、として良いようにも感じる。
「ヤッツケ仕事」に関しては、私はあまり非難できる立場にない。私のいるIC業界は、技術の進歩といっても「お隣のICとニコイチで同じ値段!」なんて仕事ばかりが求められた経緯があって、ヤッツケ仕事的な方法論に引っ張られ続けてきた。クルマの技術が、デジタル(古くは電子制御)に侵食されて久しいが、仕事のペースも、そんなIC屋やソフト屋なんかのスタイルに、乗っ取られてしまったような感じもする。
本書に戻ると、まあそんなわけなので、今読んでも、「ああ、あったなあ…」と懐かしさに浸れる瞬間はあるかも知れないが、技術的に拾える情報はあまりない。たまに、キラッと光る断片のようなものもあるにはあるが、それに気付いて拾えるのは、やはり、時代を知っている古参のような気もする。つまり、今、これを読み返したとて、実地の役立つことはほとんどなかろう、とそう感じる。
この本、当時は、それなりに物議を醸したらしいのだが。
今や、「伝わるはノスタルジーのみ」と、どうも、そういうことのようだ。
Amazonはこちら
大昔の古本なので、プレミアのようです。ちなみに、定価は¥2800。
数千円の価値があるのかは疑問で、個人的には、手近な図書館で探してみることを推奨。
究極のエンジンを求めて
続編もあるようです。
続 究極のエンジンを求めて
新・究極のエンジンを求めて
最近のコメント