「貨幣進化論」 ― 2011/12/17 06:39
貨幣システムの変化の歴史と、今後を論ずる
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題名から、「貨幣は今後も進化して行くであろう」的な一般論を想像するかもしれないが、そうではない。
楽観論でも、無論ない。
あくまで、実務的な視点を貫いている。
著者が「価値の乗り物」と定義する貨幣が、時につれ時代につれ、どのような変遷を経てきたか、著者の見解が述べられている。
貨幣は、特定の構造の中で、ある機能を果たすべく、全体システムの一部として想定された虚構である。
虚構だが、皆で等しくそれを「認める」ことで、成り立っている。
会社や 、国と一緒である。
その仕組みは、特定の意図や、偶然、アクシデントなどにより、時につれ場所により、変容する。
それを、順を追って説明する、という構成なので、必然的に、経済学的なあれこれの知識が、有機的に組みあがって行く作りになっている。なので、端的に「勉強になる」。
反面、アカデミックな大勢からは逸脱しておらず、著者ならではの視点、独創性のようなものは強くないので、斬新さとか、真新しさはあまりない。
それは、終章の未来予測でも変わらず、「何となくこうなろう」のような、曖昧で尻すぼまりな印象なのが少々残念だ。
昨今の経済状況がかもす不安感は、貨幣そのものが、疲弊し、古びているのではないか?と思わせる。それに対する答えを、明確に与えてくれる本ではないが、何とかしたい、と思っている人には、参考になるだろう。
それが、「次の貨幣」なのか、「貨幣の次」になるのかはわからないが。
所詮は人工物だ。設計できないわけがない。
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貨幣進化論―「成長なき時代」の通貨システム (新潮選書)
「骨から見る生物の進化」 ― 2011/12/18 08:32
脊椎動物の骨格の写真集
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図書館で見かけて、ちょいと一目ぼれして。
重いのをかかえて借りてきた。(笑)
一見、趣味の悪いホネの本か、生物学的な資料あたりに見えるのだが。
この「凝りよう」は並ではない。
ライティングで、表層の陰影を鋭く刻み込んだ、土門拳ばりの白黒写真だ。アングルや構図、配置も凝っており、点数も多くて見ごたえがある。
以前、バイク関係のエントリーだが、「やっぱり骨だよな」というようなことを書いた。( Motorcycle Road & Racing Chassis )
本書は、その「動物版」ともいえる。
バイク→動物、に置き換えてそのまま要約すると、
動物の臓物は、その機能に由来する制限をそれ自体で持つので、動物の種類が違っても内容は大して変わらなかったりする。だから、動物そのものの特徴や機能を決めているのは、その配置、つまり骨なのだ。
本書がカバーするのは、いわゆる脊椎動物のみである。それなのに、このバラエティーだ。 単純なエラーの積み重なり、という意味での「進化」でひとくくりにするのは、難しいと感じてしまう。そうなりたい、こうしたい、のような、機能を目的にした意図や意思のようなものが感じられる。(写真家の意図なのかもしれないが。)
(タイムボカンの最後に飛んでっちゃうアレを思い出したのは、最近、子供と一緒に再放送を見てるせいかな・・・?)
機械屋の目で見ると、骨といってもフレームのイメージの剛体ではなく、細かいパーツの間を軟体でつなぐフレキシブル構造なので、荷重の受け手という意味合いは薄い。むしろ、配置と機能の相関の造り方が、見所に思える。
基本構成は、ほとんど同じなのだ。
頭蓋骨、背骨、骨盤。
手足は二本ずつ。
あとは、あばら。
目は二つ、鼻はひとつだが穴は二つ。口はひとつ、耳は二つ。
それなのに、これだけのバリエーションである。
飛ぶため、走るため、泳ぐために、あなたは、この構造を思いつけるだろうか・・?。
自然に学ぶ、ではないが。圧倒される。
動物だけで、これである。
虫(モノコック)は、こんなもんじゃない。
(という話を 昔書いたな そういえば。)
どうも話がそっちの方に行ってしまうが。
本書に戻すと、無論、本来の狙い通りに、生物学的な考察を深めるにはもってこいの資料だし、白黒写真集としても、秀逸なできばえだ。
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骨から見る生物の進化 [大型本]
値上がっているようだ。2008年の初版は¥8800。
半額の普及版もあるようだ。こちらは書店でも見かける。
大きさも半分なので、本来版サイズの迫力が、だいぶ損なわれるのは残念だが。これなら本棚にも入るぞ。(笑)
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骨から見る生物の進化【普及版】
「宗教を生みだす本能 ―進化論からみたヒトと信仰」 ― 2011/12/24 15:41
宗教の実利面について、進化論的な視点で論じる
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世界的に、神とか、聖なるものを大切にする人は多い。それが、彼らのものの考え方のごく基盤や、根本をなす場合もある。国境の敷居が低くなるにつれ、我々もそういう人たちと話をする機会も増えている。なので、「神」がどんなものであるか、ある程度は理解しておく必要はあるし、理解してみたい、とも思っていた。
私はゴリゴリの無宗教で、信仰に対する欲求は全くない。それで不満も不安もないので、宗教が本能的なものだとは思わない。だが、この本の著者は「本能だ」と断定している。たぶん、彼が宗教と呼ぶものは、私が信じて「いない」ものとは、異質なものなのだろう。だから、その著者の視点が、何らかの新味や、理解への突端なりを与えてくれるかもしれないと期待して、手に取った本だった。のだが。
世界中に宗教と呼ばれるものは無数にあるが、種類も歴史もさまざまで、「みんな同じ宗教ですね」と一言では済ませられない。その根源に迫ろうというのだから、ある程度の類型化なり整理なりは必要だと思うのだが、本書では、そういったことは特になされない。筆者は、まず実利面だけを取り出すフィルターを通すのだが、その過程で、筆者の論旨に都合の良い材料だけが選ばれているようにも見え、その結果として、誰かが論じたものを混同したり、取り違えたりが少なくないようにも見える。彼は、自分が何を認識しているか、まず認識すべきだろう。(我々も同じだが。)
本能と遺伝子を混同しているようなのも気になった。遺伝子的に何か関係があるかどうか(遺伝子に欠落があると宗教心があるとかないとか、そんな話)が、「本能」の機能として断定できるとは限らない。例えて言うと、車庫入れのためにつけたバックギアが、強盗から逃げる際に役に立ったとしても、クルマの設計者が拳銃強盗を予測してそれに備えていたのだ、ということにはならないのと同じだ。(バックギヤを取っ払ったら強盗にやられたから、それは強盗対策のためにあったのだ、ということにはならない。)
進化論自体がそうなのだが、何となく優位主義的な何かを与件として論じているようにも見えてしまう。(選ばれた民族とか、動物の頂点に立つとか何とか。一神教の悪い癖でもある。)だから、そういう思考のバックグラウンドがない私が読むと「不思議」に見えてしまう。一方、それにおもねている向こうの人が読むと、面白かったり刺激的だったりするのだろうか。その意味で、宗教と文化の間に線を引くことにも、失敗しているようにも思える。
宗教が、あらかじめ脳に刻まれた何かなのだとしたら、同じ宗教から違った宗派が現れることもないだろうし、それらが決定的な矛盾や決裂を起こすこともないだろう。もし、それもあらかじめ脳に刻まれているのだと言うなら、刻まれているのは宗教ではなく、矛盾の方だ。その上に宗派を塗りこんだのは、きっと、他の誰かだろう。
結局、はまらないピースをつまんだまま、あちこちうろつきまわるような、居心地の悪さに終始した。
日本語にしたのが間違いなのかもしれない。翻訳の過程で、日本的なニュアンスに変換されてしまうのが、そもそも、そぐわなかったのか。原文で、言語のニュアンスで読めば、少しは腑に落ちたかもしれない。
やはり、私が、神や、聖なるものを理解するのは、難しそうだ。
(以前取り上げた このあたり の方が、よほど参考になった。)
神様なんて、理解ではなくて、ただ感じたり、受け入れたりする類のもの、なのかもしれないが。
(クリスマスイブのエントリーには、あまりそぐわなかったかな・・。)
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宗教を生みだす本能 ―進化論からみたヒトと信仰
同じ著者による本の過去エントリー
(こっちは、さほど悪くはなかったんだが。)
「背信の科学者たち」
「 VESPA TECNICA 1 」 ― 2011/12/25 16:20
1946-55年のベスパのモデルヒストリー
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前に一回、こりている のに、何でまた買い足したかというと。
引き続きユーロがお安いところに、Amazonイタリアでお気軽に買えるのを見つけて・・・送料入れても安かった!、というのは、実はただのトリガーでしかなく。
ベスパの構造は独特だ。感心するほど合理的な一方、放置された不合理と同居している。シンプルとちゃちが微妙な稜線をなす造りだが、走ってみれば意外と行けてしまう。こんなのが、同じ基本構造のまま、延々と、まだ新車で売ってたりする。
この設計者は、どうしてこんな構造を思いついたんかな?と、前から不思議に思っていたのだ。
このシリーズ本は、前回、最終巻の5巻目を買ったのだが、モデルヒストリーとはいえ、なかなかに詳しかったので、初めの巻を見れば、ベスパの何たるかの「なれそめ」が分かるかな?と思ったのだ。
狙い通り、ごく初期のモデルの詳細を、きれいな写真で見ることができた。
しかし、基本構造は今のハンドチェンジと同じだなあ・・・というのはよくわかったのだが。その「何たるか」の根本の所までは、読み取れていない。
私の理解力不足だ。もっと勉強せんと行かん。
そういえば、スクーターの歴史って、ちゃんと調べたことなかった。
軽く調べてみようかな。
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Vespa Tecnica: 1
「里」という思想 ― 2011/12/31 13:51
自然に暮らす感性から、近~現代の感じ方、考え方を論じる
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ひさびさに、哲学の本を読んだ。
哲学といっても、難しい古典の話ではなく。普段の我々の感じ方、考え方について、ちょいと掘り下げてみる、という哲学だ。材料が身近なので、つい手に取って、考えてしまう。久しぶりに、じっくり本を読んだような気がする。
何だか、すっきりした。(笑)
筆者は、田舎に住んでいる。その、自然豊かな「里」から、近代を眺めると、どう見えるか。このところ、我々は急速に進歩や発達をしてきたわけだが、その変質や歪みについて、とある視点を提供している。
「戻る場所は、あるもの/あるはず/あるべき」という考え方は、何だか普通になってしまっているように思う。「自分探し」や「居場所」といった類もそのニュアンスを持つし、宗教や「約束の地」なんかは正にそのものだ。クルマのレースはだいたいスタート地点に戻ってくるし、電気回路は電源に始まり、電源に終わる。(これはちと違うか。)まあ人間というのは、居を定めて、毎日そこと外界を行き来する行動様式が多いので、あらかたの物事を、そのイメージで考えるもの、なのかもしれない。
筆者がつづるのは、我々が持つ、その「戻るべき場所」の意味と、変遷だ。
以下は、その私なりの解釈である。
「物事を捉える」、つまり「それが何であるかを決める」とき、必要なものが、二つある。
「物差し」と、そのゼロを当てる「原点」だ。
捉えたい物事があるとき、我々は最も適すると思われる物差しを選び、原点にゼロを当てて、そこから、目的までの長さや、大きさ、遠さなどを測る。
かつて「物差し」は、生活に密着していた。
住む土地の風土や気候、山野や田畑など、日々、自分が触れる物事が、その主な対象物だった。
それは、バリエーションに富んでいた。
極端な話、隣人と耕す田畑が違えば「物差し」も異なる。いわば、皆がワンオフの専用ツールセットを持っていたようなものだ。
おらがムラやクニで、話し言葉から異なっていた時代。「物差し」は、人と違うのが当たり前だった。「人それぞれ」でよかったし、そこにさほどの優劣も無かった。いわば、違いを前提として、共有できていたのである。
それが、近代化、戦争、経済成長と、時を経るに従い、均質化する。
過去は古臭いもの、終わったものとして打ち捨てられ、万人が受け入れるべき「正しいツールセット」が、外部から提供される時代になった。
それらはしばしば、もっともらしく、正しげな外見をしている。例えば、民主主義とか、人権とか、資本主義とか。
そういった、「唯一で正しいツールセット」を使うのが善、(それ以外は悪)、という時代になって行ったのだ。
その一方で、「原点」の方は浮いたままだ。
当たり前だ。物差しには使い方がある。
前提を共有したり、深く理解したり、練習しないと使いこなせなかったりする。
ただ物差しだけを与えられても、役に立つとは限らない。
見よう見まねで使っても、何だか空々しく、危うい。
そうこうするうち、不安は、次第に疑問に凝縮していく。
「そもそもこの物差しは、私を計るのに、適しているのだろうか。」
我々の不安や疑問が、この「物差しの一本化による価値観の矮小化」という逆説だとしたら、「グローバリゼーション」も同じコンテキストにある。デモやテロなど、今、世界中で起きているのは、我々が不満に思い、不安におののいているのと、同じことではないのか。
もうひとつ、著者の視点で面白いなと思ったのは、終盤に展開される「未来」に関する下りだ。
「未来」とは本来、死を指していた。極楽浄土とか、天国に召されるかが「未来」であって、現世(現生)はそのための「約束」だった。その考え方を支えたのは宗教だが、世俗化が進むに従って、未来は「生きているうちの将来」、つまり現世利益に変容した。それからこっち、「約束」が果たされないこと、生きているうちに欲求が満たされないことが、不安や不満として大きくなった。
面白い見方だ。
我々は進歩して、神と別居した挙句、死を超えられなくなった。
小物になった、というわけだ。
筆者は、ローカルなものの肯定を非常に重要視しているが、私は、それだけでは解決にならないと思う。
ローカルでいいなら、ただ自分の快い所に閉じこもってしまえば済んでしまう。
哲学は、閉じてはいけない。外へ向かって、花開くもののはずだ。
「昔は良かった」かもしれない。
しかし、単純に昔に戻っても、解決にならない。
(また、水汲みから始まる田舎の生活に戻るのか?。)
田舎暮らしをすれば解決する、とも思えない。
(したい、とはたまに思うが。)
「真実はひとつ」とは限らない。
大体、何が真実かもわからないのに、それが一つだと、わかるわけがない。
だから、「唯一の原理にたどり着いたから、これが真実だ」というロジックや、「これが真実、これ以外ありえない、知らないのか?」といったレトリックは、すべからく疑ってみた方がいい。
まず、何が良くて、悪かったのか、整理しないと。
そのためには、間違った「前提」を外して、思索を自由にしないと。
「全てはフローティング」
原点無しだ。
この不安定さに耐える覚悟が、哲学の第一歩だ。
物事に理由をつけて安心する癖も、やめた方がいい。
何か起こってしまった後から、アレはこうだったから・・・といくら理屈をコネたところで、解決もしないし、納得もされない。
(一般に、それは理由ではなく、言い訳という。)
哲学は、過去に都合をつける道具ではなく、未来に働きかけるもののはずなのだ。
本書は、9.11までの、筆者の思考をまとめたものだが。
その後の、震災のあれこれ(原発!)とその後の何某を見ても、原因は、同じことのように思える。
近視眼域に閉じこもり、将来を負わないこと。
我々は、将来に対する、あらゆることの当事者なのだ。
静かに閉じこもっていないで、 もっと怒るべき と感じる。
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